2012年8月11日土曜日

消費増税可決、成立

残念ながら、成立してしまった。
まさに、国難である。総理はマニフェストに含まれなかったことに関し『国民におわび』としたが、お詫びするくらいならやらなきゃいいのに。
まあ、選挙は近いとされているが、今回の結果を踏まえ、私も権利を行使しようと思う。ただ、今回の三党については、私の理念に真っ向に反する経済・財政政策であるので、入れることはない。

私は、連合系の組合に所属しているが、連合は今回消費税を容認していた。組合の投票要請は静かに拒否するつもりである。消費税による赤字を少しでも目減りさせるために、組合費を払うのをやめようか。連合も自らの利権(組合費)に対して危機感を感じるべきだ。労働者は連合(及び民主党)に対して反旗を翻す時期かも知れない。現に、私の所属する組合は前回比例では『社民党』に入れろと言ってたしな。

国の財政が大変だから、震災で大変だから、社会保障で大変だから、ということで今回の増税が行われる。しかし、私に言わせれば、平成以降の経済政策に失敗している結果である。バブル終焉期に直接税を増税せず、消費税を導入した。そもそもの間違いである。その間違いをさらに国民に押しつけ、その間違いに増税による間違いを積み重ねることになるだろう。このままでは景気は好転しない。

来るべき選挙は、経済の視点をしっかり持っている政党に入れるつもりである。

2012年8月7日火曜日

続・不信任案情報

本日は休日出勤の代休である。元来私は休みは好きではないが、代休が10日くらいたまってしまったので、業務命令により休暇をいただいた。
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中小野党7党の不信任案と、自民党の不信任案が同時に提出された場合は、どうなっちゃうのか、と前回は疑問だったが、この場合、会派別人数が多い方が採用されるとのこと。これはわかりやすい。ただ、提出の理由が全く違うので違和感があるが。

ところで、かなり前に、もし不信任案が出れば、消費税法案に賛成の自民党は不信任案に同調するしかなく、でも消費増税法案は可決したい、というジレンマに悩まされると書いたが、最近おもしろいことに気づいたので書いてみる。
衆議院では、総数480議席のうち、与党系(民主、国民新、新党大地・新民主)が256議席だそうだ。野党系は224議席であり、その差32である。もし、造反が15人出れば可決は可能(これは賛否同数となるので本当は16人のはず)だが、民主党不満分子の代表である鳩山さんは今回は「信任する」と言っており、組織的な造反はないだろう。よって、多分否決。ただし、小沢さんは鳩山さんを口説いている最中で、小沢、鳩山両氏が影響を与えることのできる民主党内に残存した最大の人数は70-90人ほどと見積もることもでき、オーナー鳩山氏が民主党を見限るか、野田総理を追い出すつもりで大号令すれば可決しちゃう可能性は十分にある。16人くらいどうにかなるだろう。そうすれば、消費増税は完璧に今国会では廃案。

一方、参議院の問責決議は、何もなければ可決される。そこで、参議院の審議はストップすることになるが、事態はこれで止まらない。6月26日に消費増税案が衆議院で可決されているので、ここから60日以内に参議院が可決しない場合は、法案は衆議院へ戻される。ここで、採決すれば、民自公の賛成2/3以上により衆議院の優越の規定で可決される、というのを自民党は狙っていたらしい。
そうすれば、内閣不信任には賛成し、消費増税に賛成するという自民党としての体面は保てる、ということになる。

しかし、国民から言えば、不信任票を投じた内閣に対して、その後(内閣の提出した)法律案に賛成する、なんてことは許されるのか…。しかも、その時点では参議院で問責された内閣である。国会会期末は9月8日まですでに延長されているが、自民党のこの策略が国民の理解が得られるかどうかは、わからない(まあ、たぶん得られないが)。早期解散が担保されない限り、三党合意を破棄する、という脅しをかけているのだが、もし解散を願うなら、その後召集された国会で消費税をやるのが国民の願いだろう。
どうやら、自民党もいろんな意見を言う人がいるらしい。で、こんな結果になっている。もう、ここ一週間は『若手主戦派』がその意志を握っているらしく、どんどん強硬となっていく。まあ、それがおもしろいんだけど。

ところで、新聞の社説は各社こぞって消費増税に賛成している、と以前書いているが、今回の事態になって、
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO44643600X00C12A8EA1000/
とか
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20120806-OYT1T01656.htm
を読むと、一刻も早い一体改革&消費増税成立を、また、それが国民の意思だ、ぐらいなことを書いている。なんでもかんでも国民をさも味方につけているように書けば新聞社はいいんだろうな。この段になって新聞社もみっともない、と思ってしまった。
産経も社説では、上記と同様な立場だが、論説では科学的データを示した上で中間層(勤労者世代)の家計をこれ以上破壊するのは適切でない、という意見が見られる。私もこの論拠には納得するのであって、今は税金を取る時期ではない、と思う。
もし、増税するなら消費を押し下げ、在庫を発生する消費税より、むしろ、法人税、所得税などの直接税の累進制を再度高めよ、という説を昔から展開している。なぜなら、勤労者世代の所得を平成以降叩き続けてきて、所得格差は広がり続けている。その中で勤労者世代は所得が伸びず、消費はかえって低下を来しているのである。金はあるところにはある。そこをなぜ狙わないのか。こいつを再分配するだけで、そのまま経済成長になるのに→消費増税分を補うくらいに成長するだろ。
『福祉(税と福祉の一体改革)により、増税が必要です。消費税を上げます。それが国民の意思です。』と書けばなんでも許されてしまうのは気持ちが悪い。なぜ、消費税なのかを説明してもらいたい。やっぱり、財務省と新聞社はなにかあるに違いない。いや、公明党と新聞社か。放送局はそこまで言ってないもんね。

参議院は事実上ストップするので、それ以降の法案については、消費税以外自民党はすべて反対して、闇に葬ってしまう、というのもなんだかな…っていう気分なんだけども。消費増税については、選挙の争点として争うのが国民としては一番なんだが…。

2012年8月2日木曜日

日本人のルーツと発想の違い

今回は、別に批判するわけじゃあないよ。
ロンドン五輪で 「重量挙げ“金”のカザフ2選手は中国人」と中国のマスコミは言ったそうだ。また、アーチェリーの選手は日韓の混血で、比較的最近帰化したそうだ。
中国の件は、信憑性に欠けるし、真実ではないらしいが、そこからわかることは、大陸の国ではなにかいいことがあると、『これはわが国由来である。』と言い切ってしまう、という特性がある。
片や、アーチェリーの選手は、『日韓両国の皆さんに感謝する』というコメントをした。これは両国にとって大変喜ばしいことである。また、「韓国では4位になれば何をしているのかと叱られるが、日本ではお祝いの言葉を受ける」と語っているそうだ。日本では、当然メダルを取れば「おめでとうございます」と言うし、入賞してもしなくても『おつかれさま』くらいのねぎらいはするだろう。やはり国民性が違うのだろう。多分、選手を送り出すこと自体の意味合いが違うのではないか。中国や韓国は、国を背負って頑張れ、と考えるのに対して、日本の場合は『個人が頑張って国の代表となったのだから、実力を発揮してくれ。』と考える。もし、ダメだったとしても、国民が責めたりはしない(一部の批判は認められるが、じゃあおまえはどうなんだ、と逆に責められる)。国と個人のバランスで言えば、かなり個人に傾いた思考を行っている。
ただ、某掲示板で心ないことを書き込まれ、彼女が傷ついてしまったことは、日本人として心から謝罪しなければならない。

日本では、日本が送り出した学者が例えばノーベル賞をとっても大統領になっても、我が国由来だ、というレベルで論ずることはない。日本人の道徳として、日本国がエライとか、そういった表現は決してしない。あくまで個人賛美で、『今までに至る道は大変だったろうな。』とまず他人を思いやる文化を持っている。この思想はモノに対しても有効である。例えば戦前、アジア各地に水道施設を日本人は残してきたが、これを維持する能力はあくまで、現地の人たちの力である。この場合、『日本は水道インフラを現地に投下しました。』というような単調な表現であり、中国、韓国のような『我が国由来』みたいな情熱のある表現はしない。

しかし、日本人は逆に外国人が日本に言わば『亡命』のような形で『帰化』するとか、為政者のような形で『君臨』すると大歓迎する、という特性がある。古くは百済亡命政府、近世では『小泉八雲』、終戦後はマッカーサーをはじめとする『GHQ』、現代では北朝鮮に亡命していた『米軍兵士』のような事例がある。また、中国残留孤児などもこのパターンに当てはまるのではないか。
日本は、古くから『扶桑の国』とか『黄金の国』と呼ばれ、『桃源郷』を思わせるイメージを近隣諸国に植え付けてきた。また、日本国内でも近隣諸国と違い、『日本国内はいい国だ』と思われたい国民意識が民族固有のものとして存在しているようで、それが外国人にいい方向に働くようだ。確かに、反作用としての差別意識も働くようであるが、日本国内で『同化』する中でそれらの意識も消滅しやすい傾向にある。

このように、異文化の吸収力、また人種の同化『力』もある日本民族であるが、なぜ、このような文化が『日本のみ』成立しているのであろうか。私自身の結論は、『縄文文化』の存在が後世に良い影響をもたらしたのではないか、と考えている。ここからは、あくまでその理由を推測してみる。

日本の縄文文化とはいわゆる『ミクロネシア人』が創造した文化、と言われている。おそらく、ミクロネシア人は比較的移動を行い、土地に定着しにくい性質があったのではないか、と思われる。また、このような性質を持つ『人種』は『好戦的』な集団とそうでない集団とに分けられるのではないか。
日本に来た『ミクロネシア人』は比較的温厚な集団であり、他集団に交流、依存しながら移動を行ったものと推測できる。移動し、他集団に『寄生』し、食料をもらい、食料を確保し、子孫を残していく。そのために、他者を排撃することなく、良好なコミュニティを実現するために一種の道徳観念を発達させた。日本に特有と思われる『他者への異常な思いやり』がそれである。確かに欧米文化としての思いやりもあるが、これは『神に祝福される』ための思いやりである。たとえば、震災後に救出されたときのおばあさんのように、消防隊に対して『ご迷惑を掛けてすいません』みたいな思いやりではないのだ。もし欧米人が助け出されたら、『神に感謝します』というだろうが、日本人の場合は、助けてくれた人にまず感謝する。そして、自分を助けてくれた消防隊という組織を、自分のために出動させてしまったことを詫びる。日本ではごく当たり前のことだが、世界にはこれがまったく理解できない。なぜ理解できないのか。これが太古の昔からの『縄文型文化』の発露だからだ。
逆に、日本のために世界中が神に祈ってくれたが、実は、日本人にとってはこれがまったく理解できない…。しかし、日本人は世界中が『なんか知らんけど祈ってくれたやろ』と考え、手間数をかけたことを申し訳なく思い、世界中に感謝する。日本が世界中とつきあうためには、精神的な翻訳の構造が必要である。

座り込んで抗議するのは、日本では良しとされない。あくまでスポーツは審判に従うべきであって、科学的に1秒2秒伸びたからといってもあくまで審判の判断に従わなければならない、と考える(再度言うが、これは批判ではない。勝利にかける執念はあっぱれである)。でも、もし、相撲(国技)で座り込みをやったら(たとえ数秒だけでもそんなことをやったら)追放され二度と土俵に上がれなくなる。日本人は、潔いことを美徳とするからだ。ここで、自己主張をしてしまったら、自分はいいけれどもほかの人に迷惑をかけるし、他の人が責められることにもなる、と思考する。また、問題が起きたことはすべて自分のふがいなさからだ、と認める。これが、宗教化されていない至極道徳的な日本人の死生観にもつながっており、さらに潔さは『生命を軽視』することによる『穢れ』を極端に嫌い、これは逆に生命の尊重につながるのである。
そういえば、昔、聖徳太子という偉い人がいたが、この人の『十七条憲法』(十七条の憲法)は、日本人の美徳をよく書き表している。おそらく、聖徳太子や蘇我氏は、土着の民や渡来人と交流(多分政治的な議論が主体だろうけど)するうちに、日本人固有の思考と道徳を見いだしたのではなかろうか。

太古の昔から、日本列島は、朝鮮人、中国人、北方モンゴル人の攻撃や侵略、交易、移民、亡命を受けており、その後、弥生時代、飛鳥時代を経ていくことになるが、そこで注目されるべき事実がもう一つ存在する。
確かに、これらの民族の進出を受け一部は同化していく中で、政治機構や言語は大陸系のものに順次染まっていったに違いない。『ミクロネシア言語』についても文法は失われ、現在では地名程度しか、その痕跡をとどめていない。また、日本人の血液のDNAを調査しても、『縄文人』のDNAは一割程度しか残されていないそうで、純粋な縄文人などというものは、絶滅したといっても良い。
しかし、縄文人の残していった『精神文化』は偉大であった。現代日本人が持つ『道徳文化』のほとんどは、縄文人由来ではなかろうか。たとえば、前述の『救出していただいてどうもすいません』という表現に見られる、自分が決して労働の提供を受けてはいけない、他者に迷惑をかけてはいけない、といった精神構造があげられる。また、コミュニティを重視する『愛社精神』『会社人間』と行ったものもそうだろう。また、『勤労奉仕』が成立するのも一つの道徳である。例えば、道路が損壊しているのを発見すれば、大陸的な発想では、避けて他人の土地を通ってしまう。また、損壊を修繕したりしない。それでは、業者の仕事がなくなってしまう、という発想をするらしい。しかし、日本は『他者を思いやる』ために、迅速かつ安全に復旧させようとする。安全のためには、業者は儲からなくてもいい。業者が儲かるのは本復旧の設計以降だ、と考える。こんな事例でも大陸と日本ではこれだけの決定的な違いが存在する。震災時の道路損壊はほとんど行政が簡易的な設計により対応したものだが、この復旧スピードは世界をビビらせた。
中韓の道路は、ゴミが多く汚れている、とネット上では言われているが、日本の場合はどこに行ってもきれいで、よく修繕されている。これは、地元や沿道の人が『軒先や地域にゴミが落ちているのはみっともない』と考えて掃除を『勝手に』してしまうからである。また、子どもたちも比較的しつけられており、ゴミを捨てない文化を持っていること、道路が壊れていれば逐一行政に報告するなど、日本人の美徳は限りない。行政がやらなければ材料の支給を受けた上で勤労奉仕としてやっつけてしまう。これは、日本人全体に根付いた道徳である。
また、日本においては、このような道徳観が個人に大きく根付くあまり、宗教性をあまり必要とされない。宗教に対しては、神道も仏教もキリスト教もみんなひとくくりに『神様』としているフシがある。まあ、神道は日本文化に根付いているので、日本人の精神性を示すもの、ということもできるが、宗教といったジャンルでは少なくとも『神様』である。
たとえ、GHQがキリスト教を携えていたとしても、日本国民は『仏教中心』からそんなに変わることがなかった。これは、米国が戦争に勝ったとしても日本人の精神性まで『侵略』できなかったいい事例である。片や、この小論では同胞(といってもDNAレベルでかなりの部分が共通する、という意味)、といってもいいくらいの隣国韓国では、人口の3割がキリスト教徒(全宗教人口の6割に該当するらしい…)であるという。素直に驚きである。
確かに、この説明では日本に大乗仏教が根付いたメカニズムを説明していないが、多分コミュニティのアニミズムに『寄生』する形で拡がったと思われる。また、江戸時代のキリスト教も『神道』や『仏教』に同化する形をとっていたのでは…、と思われるフシがある。テレビで江戸時代から伝わるキリスト教の祭壇を見たことがあるのだが、『仏壇』と言っても良いほど『日本的』であった。
しかし、日本においてキリスト教がなかなか普及しないのは、唯一絶対神のみを日本人が受け入れがたいためである。なお、唯一絶対神も、仏も神も信じているのが、日本人の特徴とも言えなくもないが、信じる、とか祈る、という宗教スタイルでさえ日本人は正直理解できない。『現世利益』を祈願するなら理解はできる(笑)。
縄文型コミュニティは、山、川、海、草木、動物、雲、雨、太陽、月といった周りを取り囲むものからの利益を享受している、と考えた。また、時には災害をもたらすこれらのものをコミュニティの化身として投影するようになる。すなわち神である。コミュニティと神と個人はかなりの共通部分があり、個人も『神性』を備えていると考えられていたのではないか。
だから、震災後に世界を驚かせた、略奪の少なさや、礼儀正しさ、冷静さ、そしてずば抜けた治安を実現しているのだ。日本人すべてに神性が宿っているので、もし反社会的な行為をすれば、自らが何者かに罰せられる。これは国家ではなく、各個人に宿った神性により罰せられる(バチが当たる、という表現)、と考えているのである。

よって、日本人それぞれに宿る『縄文型コミュニティ』の縮図の総体が日本の神道と言うこともできるのだ。この考えは、『仏』にも通じるので仏教と神道とが排撃し合わずに普及(神仏習合)したのであろう。
某国は靖国参拝を非難するが、上記のメカニズムに基づいて言えば日本人の精神文化を否定、愚弄することにもつながる。このことについては、日本人はもっと怒って良いだろう。しかし、日本人自体が、自らの道徳が世界に誇るべきものと気づいておらず、さらにその道徳が神社に結びつく、なんてことは到底考えていない。当然、某国がこのような宗教観、倫理性を理解できるかどうかは到底無理だと思われる。日本人の道徳は世界中で日本人のみが理解できるのである。海外では、日本人は楽観的な運命論者、と評されたが、そんな難しいことは日本人誰一人考えていない。当たり前の行動をしているだけである。

昔、水戸黄門がテレビの中で言っていた言葉、『お天道様は許しませんぞ!!!。』この言葉を世界中に広めるだけで、世界平和を実現できるのに(笑)。理解できるのは日本人だけ、という悲しさ…。

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ミクロネシア文化はこのようにコミュニティ重視の平和的な文化を日本にもたらしているのであるが、日本を過去に征服してきた民族、部族にとっては、ハード的に侵略は成功したものの、文化的には逆に侵略されてしまった、ということもできる。その反面、ミクロネシアはいざ戦争となると『首刈り』を行ったということでも、その後の日本に絶対的な影響を与える。

班田収授法と墾田永年私財法は日本の経済を独自に発展させるきっかけをつくったが、これを守るために武士が登場してくる、と学校では習っている。しかし、過度とも取れる主従関係なくして武士は成立しないのであり、これは多分、『縄文コミュニティ文化』を背景に武士が登場してきたのだろう、と私は考えている。また、封建制成立の基礎ともなる大陸風の『論功行賞』制度であるが、日本では敵方の『首』を主君に差し出すことで褒美が得られる制度に変質した。この変化も縄文時代の『首刈り』制度が基本になっていると推測できる。日本の封建制は、このように『縄文文化』と『大陸文化』のバランス良い『混合』の結果成立するのであり、日本にもし『縄文人』がいなかったら、多分中国とも韓国ともそう変わらない道徳心であったのではないだろうか。
『縄文型コミュニティ型封建制』はその後、資本主義や愛社精神及び世界に誇るべき道徳に形を変え、今も我々に生き続ける。日本人がまじめ、勤勉と言われるのも、我々がバランス(規律、規範、道徳)の良い縄文人と大陸系の混合タイプだから、と言えるのではないか。大陸由来のDNAは9割を占めるが、縄文人の精神性は未だ生き続けているのである。

で、冒頭に話を戻すが、中国、韓国人の文化は『送り出す文化』で自らの国を誇る文化であると言える。しかし、我々日本人は全く逆な発想で、『迎え入れる文化』で訪れた方を歓迎する文化なのだろうと思う。たとえ、ムラが『侵略的渡来人』に征服されていったとしても、合一化したコミュニティ内で実は敵勢力を平和裏に包含し、また、為政者(の一団)に『神性』を植え付ける結果になっていったと思う。これが、日本人の発展エネルギーのすべての源泉であったに違いないし、世界中の人々に理解できない、そして賛美される日本人の精神構造につながっていくのである。

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新渡戸稲造先生は『武士道』を著しているが、『武士道』という体系がなぜ構築されたのか、は小論の立場から推察すれば、日本人の中には『縄文型コミュニティ文化』がその背景として存在するからである。現代でも李登輝先生が『武士道』を世界に広めるべき、と語っておられるが、『武士道』を理解させる精神的素養=『縄文型コミュニティ文化』の理解が必要である。これは宗教の教典のように明文化、体系化できるのであろうか…。日本人すべてに課せられた課題といって良い。

再度、内閣不信任案

参院で増税法案採決前に、衆院で不信任案を提出する、という方針が野党の一部で固まったとのこと。野党の一部とは、共産、社民、みんなの党である。これに生活ときづなが相乗りしたことで、提出が可能になったとのことだ。

自民、公明は、増税採決案に「賛成」であるが、不信任案ということになると微妙。普通では当然、不信任案に「賛成票」を投じることになるが、民主党に同調しすごく「増税したい」が、内閣を「信任」するわけにも行かない。またすでに、自民党若手は執行部方針に反対し「三党合意破棄」を迫っている状況である。
谷垣総裁も頭が痛い。小泉進次郎に出て行かれたら、人気のある人いなくなっちゃうもんな。

正直、自民、公明が不信任案に賛成、ということになると、野田内閣及び民主党にとっては、今まで費やした時間、金も相当な痛手である。会派もぎりぎり与党を維持しているような状況に陥れ、選挙で票も減らすことにもなるだろう。野田執行部は数の計算では小沢さんに勝るが、力学的な計算では負ける、と言うべきか。
結果は自民党次第、まだまだおもしろい状況が続く。

造反議員に刺客をたてる、という話が一昨日あったが、民主党はもうそんな力は残されていないだろう。正直、やめた方がよい。民主党がかなり減らすと言われている来るべき衆院選で、最大限勢力を確保するためには、正直小沢さんに頭を下げ、代表は無理にしてももう一度幹事長職を提供するぐらいやらないとダメだな…。

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現時点 8/5 報道だと、自民党が『独自』に不信任案の提出を検討しているとのことである。最初、この意味がわからなかったが、野党(中小7党相乗り)の不信任案では、『消費税増税法案の成立阻止のため不信任案』なので同調できないとのこと。自民党は『提案理由の違う不信任案には同調できない』立場から、『国会運営の遅滞、野田内閣に対する不信感』を理由にするらしい。
しかし、同一の採決になるのは疑いない事実であるので、違う理由による一つの採決になる…かな。衆議院事務局も頭が痛い…。

2012年7月30日月曜日

【オリンピック】日本対モロッコ 写真

判定がどうのこうのという気はまったくない。あくまでゲーム中のワンシーン。

日本人の態度やスポーツマンシップ、そしてゲーム運営がイギリスの若者に人気らしい。
また、オッズは現在2位だとか。こんなに日本が受けたことはありませんな…。この雰囲気なら、再度日英同盟を結ぶことも夢ではない。ただ、日英軍事同盟ではなく、この雰囲気なら日英サッカー交流条約になってしまうかもだが。

しかし、スタジアムは空席だらけだな。大会運営を日本人にやらせてくれたら完璧なのに。
(東京五輪と石原さんを何気なく宣伝しておく…。ただ、宣伝だけではない。日本人はこういったマネジメントは完璧だね。)

そういえば、清武氏は「負ける気がしない…」と言っているそうだが、サッカーに限らずそういうイメージってすっげえパワーなんだよな。もしかしてこのまま決勝戦までいって、最後は日本のゴール祭りになるかも。
あくまで冗談だが(笑)。

2012年7月29日日曜日

強くなったな… 【サッカー】 / It became strong…. [Japanese soccer]

私の高校時代の同級生に「O君」という、サッカーのうまい友達がいた。高校3年の時は席を並べていたこともあり、話をしたところによると中学時代は別の部活をやっていたそうだ。しかし、彼は高校サッカーで頭角を現し県選抜に選ばれ、当時はあまり交流のなかった韓国へと出かけていった。そこで、当然ながら韓国の反日サッカーの洗礼を受けた。かの国は何事においても『日本、日本』と言い、サッカーは『国技』であり、日本に負けることは許されなかった。
今は、確かに『反日』には違いないが、交流といった意味では韓国文化が日本に入り込んできてはいる。しかし、日本文化はどれだけ韓国に入り込んでいるのであろうか。たぶん、日本文化が入り込めば、反日も少しは収まるのではないか。反日は間違った教育を助長している嫌いがある。韓国政府は、もう少しまともな情報を国民に提供した方がよい。特に、日韓基本条約の条項と、経済援助に絡む部分、また軍属に関する補償規定(韓国政府による一括補償)などはまともに開示したことがないのではないか、とも見て取れる。
我々日本人とともに白人支配に対しのろしを上げて戦った勇敢なる朝鮮の人々がいたこと、この事実がともに東アジアの開放に至るきっかけを作ったのである。それなのにこの輝かしい自民族の働きを否定し、日本人と戦いました、日本支配から韓国を解放しました、これは事実かどうかはわからないが隣でこんな教育をしていれば、日本人としては気分が悪くなるのは当然である。そもそも解放した結果が『祖国分断』である。日本時代の朝鮮半島に対する日本国の働きはこの事実から推して知るべきである。その上、現在では韓国人は世界中で粗暴な働きをし、嫌われている。世界中に好かれる日本人とは違うのだ。
少なくとも、我々日本人にとっては、合衆国及び白人列強の非人道的な日本国いじめによる空前のエネルギー危機のもと、列島と半島の資源と食料を確保するための戦争でもあった。この事実と、ともに列強と戦った盟友ということ、そして、結果的に列強を東アジアから駆逐したこと、これさえ認めてくれれば最大の友好国になることができる。非常に残念な戦後の歴史でもある。
さて、話は逸れてしまったが、県選抜×韓国選抜の試合が終了し、結果は負けてしまった(たぶんコテンパンに)そうである。県選抜メンバーはうなだれて会場を引き揚げようとしたその時、一発のボールが選手の列にけり込まれた。この意味は『早く帰れ、二度とくるな』と言うことであった。しかし、まだ高校生の彼らはなぜそんなことをされるのか、全く理解できなかった。実はこの事件は『中山ゴン』氏も証言している。日本人の場合は、一戦交えた後は『じゃ、軽く一杯』となるところが、日韓ともなればその事情と背景がまったく違うのである。韓国人は日本人に対しては何をしても良い、とも教えられているらしい。

平成5年(1993年)にJリーグが発足し同年、『ドーハの悲劇』を経験する。その頃の国際試合はまったく見ていて歯がゆい試合の連続であった。しかし、誰かは忘れてしまったが、外国人の方で、こんなことを言っていた人がいた。『そもそも、日本人ほどサッカーに向いている国民はいないと思います。スタジアムからの統率のとれたすごい応援、ここまでやれる国民はいない。』と。
一転、平成8年(1996年)アトランタオリンピックでは『マイアミの奇跡』を起こす。
日本がワールドカップに初めて参加したのは平成10年(1998年)であるが、その時名波選手は、『優勝してねって言われるんだけど、ああ、本当にこの人サッカーのこと知らないんだな、って思う』と言っていた。そのくらい、世界にはまだほど遠かった。
1999年にはコパ・アメリカ(南米選手権)に参加し、一勝も上げられなかった記憶がある。

それが、である。このごろはなんか違う。日本サッカーの素早いパス回しとスピードが世界を驚かせている。あれは、なでしこがやっていたサッカーではないのか…。それが、オシム→ザック流と相まって、前線をかき乱して戦意喪失させる、なんともダイナミックな要素を加えたサッカーに変貌しつつある。
確かに、体格に勝るチームのサッカーは、前線にどんどんボールと人員を送り込み、ミスと隙をついてけり込むサッカーである。しかし、日本のサッカーは違う。そもそも前線にボールをけり込んでも空中戦になれば不利。だからパスを回して押し込むスタイルで、相手を見ながら自陣内でパスを回し続けいらいらする展開も多かった。しかし、オシム流から明確に変わってきた。『ドリブルではなく、パスは一発でつなげる。』これをやられると、相手は動きようがない。封じられないのである。で、外から抜く実力を持った前線のスピードはもはや世界の驚異である。そうそう、日本人って足速いんだよね~って思わせてくれる程。

海外の反応を見たが、『技術ある』、『フィジカル強し』、『プレススゲエ』、『くそスゲエ』という反応が多い。また、日本人には理解できないが、なぜか日本びいきも多い。挙げ句、日本は『金』も狙えるとの評も。しかし、国内では、案外冷静なんだよね。ヤッター!!!って言う反応よりも戦況を分析し、なぜ外す?みたいな感じ。これも日本人の特性である。

そもそも、日本人は体格が良くないのだから、体をぶつけるスポーツは適さない。その証拠が野球である。接触プレイがないからこそ、世界を相手に闘える。しかし、日本人は相撲、レスリング、柔道といった競技は強いではないか。となると、基本的に体をぶつけないスポーツであるサッカーが弱いわけはない。しかし、実際は体同士がぶつかるからこそ弱かった。しかも、相手を引っ張ったり、倒したりすれば反則、でも当然のように相手は倒しにかかってくる。日本人のように仮に戦争という状況下でも最大限の礼儀と規則を重んずる国民にとっては、半ばルールを無視したサッカーの実戦は理解不能なところである。
これを克服するための策は、素早い『パス』と『スピード』なのである。今度のオリンピックでは日本サッカー、またなにかやってくれるに違いない、と思う。もはや『奇跡』ではない。日本のオッズは現在5位とのこと。世界が日本に注目しているのである。

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いよいよSAMURAI JAPAN(NIPPON/NIHON)はZERO FIGHTERを搭載したようだ。

2012年7月28日土曜日

The all songs of WINDY 【岩﨑元是&WINDY】を聴いてみた!!!

先日、『岩崎元是』氏の本当の名前は、『岩﨑元是』という表記だと書いたのであるが、今回のタイトルはその表記で…。ただし、『岩崎元是ファンのページ』には、ご本人からたびたび書き込みがあり、名義は『岩崎元是』だったりするので、ご本人はあまり気にしてはいないらしい…。

さて、『The all songs of WINDY』を入手した。私も若いときは音楽をやっていたし、羨望のまなざしで尊敬するアーティストも当然いたが、その中でどれが一番好きか?と問われれば、『岩﨑元是&WINDY』と答えるだろう。

『誰それ?!』『ハム太郎の音楽担当の人だよ』(笑)。ボーカル(コーラス)はモジャ公でも聴けるし。
ちなみに、今から17-18年前になるかな…。嫁と娘と一緒にハム太郎を見ているとき、主題歌を聴いてたら俺『この音楽、岩﨑元是じゃないのか…』って言ったら、『まさかあ、あっはっは』と嫁に笑われたんだが、出てきたクレジットを見て一同びっくり。

おそらく、何千回と繰り返し聴いている。ちなみに冬でも(笑)。
発表した数少ない曲はすべて完成度が総じて高く、その分エネルギーを消費してしまったのだろう。活動の期間は長くないが、それがまた、好きなところでもある。『伝説の夏の翼』ではなく、『伝説の夏のバンド』となってしまった。
夏と言えば、当時は『山下達郎』や『サザン』の代名詞みたいなモノで、そこを新興『TUBE』が切り崩しにかかっている時代だったな。まったく無名だったが、『東レ』のCMソングだった関係もあって、曲を聴けば『聴いたことがある…』というくらいだったか。

その編曲からは想像できないものの、何となく『TULIP』のコード進行やベースライン(特に下がっていくところ)に似ているな…とは思っていたが、ご本人が言うには『TULIP大好き』だったとのこと。私も小学校時代から『TULIP』は大好きであったので、そんなところも影響しているのか…。

さて、慢性金欠の私だが、やっと『The all songs of WINDY』を入手してスマフォに突っ込んで一通り聴き終わったところである。ほとんどすべての曲は購入済みであるが、私が予備校に在籍していた頃の発表曲『星空のガレージ』は初見であった。しかも、なんていい曲。メロディアスな『Imagine』みたい…。

『HEART WASH』はアナログ版とCD版双方を保有しているが、アナログ版のA面『Parking』の最後尾フェードアウトしていくときに雨の音がフェードインしてくる、そして雨の音は止まない(アナログレコードの特性を利用したもの)、みたいなアイデアはいったい誰が考えたんだろうか…。当時はほとんどがフルオートプレーヤーでたぶん雨の音が途中で『ブチッ』となったに違いないが、マニュアルのプレーヤーの方などはきっと雨かな、と思って起きてみたら、レコード盤が回りっぱなしだった、なんてこともあったのではないか。
このアルバム、当時のCBSソニーによくある音質で、私は実はこれが…だったりするのだが、このことについては後々岩﨑氏が言及している(私が知るCBSソニーのアーティスト、たとえば村下孝蔵とかオザキとかもこの音質である。コンプレッサーまでは良いのだが、リバーブを全体にかけてしまっており、本来の音がつぶれてしまっているような感を受ける。岩﨑氏も今回の作業にあたっては、このモヤモヤ感に悩まされたとのことである。

しかし、曲もサウンドも良くできている。私の兄に聴かせたら一発で気に入ってしまい、結婚式の入場曲に使用したくらい。珠玉の作品集である。

ご本人は、これらの作品群を挫折の象徴だとし、できれば避けていたかったとのことである。しかし、ファンにとっての岩﨑氏の音楽は、私の場合、大学受験で失敗をし、浪人、失恋、結婚、転職、そして回顧と、すべての場面につながっており、私の半生の中で(頭の中で勝手に)一番使用されている挿入歌と言って良い。
私も当然挫折はあったが、岩﨑氏の提供してくれた楽曲は決して挫折なんかしていない。岩﨑氏の認識してくれたとおり、挫折を含めて我々の青春の象徴ではなかったか。

最後の作品『眠り続けたい』もかっこいい。エレキギターでコード一発、わざとハウらせ、高音の余韻の中にアコースティックギターがストロークで参加してくる。なんと神秘的でかつ力強いイントロなんだろうか。音楽をやっていた端くれとしては、まさに理想とする音作りであった。当時ローソンで発売していたビデオクリップ集の中にPVが入っており、最近までYouTubeでも見られた。当時、友達の下宿であれを見て、レコード屋まで買いに行った覚えがあるが、その店にはアナログ盤しかなくてそれが未だに我が家にある。また、その後苦労してデジタル変換してMDとかMP3とか、20代-30代前半の頃はいろんな聴き方をしてたな。また、どうしてもCD盤が欲しかった楽曲である。ちなみにB面の『海岸通り物語』は『from South Avenue』をCDで購入したので、データ変換は比較的楽だったが(当時はMACでCD作成をしていた)。GORO氏のジャケットも相変わらず良かったよね。
今回のジャケットもGORO氏の制作で、あの頃の若者はもう40-50代、職場ではサラリーマン生活のまとめとして一定の地位を与えられる中で(でも私はヒラ社員だけれども)、今日は休日、家族は私を無視して外出、たまには夕方、あの頃彼女と歩いた海岸でも犬の散歩がてら行ってみるか…、などという世界を想像してしまった…。彼女はもちろん『海岸通り』に登場する彼女である。
このあたりは、それぞれがそれぞれの想いで解釈して良い部分でもある。私の中での彼女は…。当然、嫁ではない(笑)。嫁は今や鬼と化した…。

カラオケ行っても『岩﨑元是』名義の曲は見ることないのだが、1回だけ確か新宿のスナックで『My Favorite Girl』を歌ったことがある。評判であった。確か、会社(某省系列の国の法人)の同僚と行った時のことであり、私の嫁(当時その予定。でも鬼になる予定は当時想定外)も中にいた。上司は、『こういうの(曲)、本当いいよね~』って言っていた。あれは、平成4年だったかな…。

さて、今度はまた岩﨑元是ボーカル作品の新作を聴きたいものである。セルフプロデュースによる再メジャー化も是非お願いしたい。


岩﨑氏の思いと曲紹介はこちら。ファンとしては、驚くべき事実と制作に関わる裏話の数々である。『サヨナラ、君のロンリネス』など岩﨑氏の思いとは裏腹に発表してしまったようで、後悔している、とされているが、案外、曲って手間数かけて作るよりフレーズが天から降りてきて、それをそのままやっつけてしまった方が人に受けたりするところもある。それは、なかなかどうなるかわからないところ。岩﨑氏は後悔しても、ファンの中では代表的であり大好きな曲の一つではないのかな。
Strings-1の由来も驚いた。私はずっと『My Favorite Girl』のストリングスバージョンかと思っていたが、『Ah~』(夏の翼)の部分だったなんて…。
http://www.most-company.com/iwasaki/tasow/index.html

たぶん、ご本人も知らないと思うが、『君が残した夏』がFM静岡(現K-MIX, JFN系)のジングルで使用されていた時代があった。なんか、局内にファンがいたみたい。結構WINDYナンバーがかかっていたな。あれから25年…。