2012年8月2日木曜日

日本人のルーツと発想の違い

今回は、別に批判するわけじゃあないよ。
ロンドン五輪で 「重量挙げ“金”のカザフ2選手は中国人」と中国のマスコミは言ったそうだ。また、アーチェリーの選手は日韓の混血で、比較的最近帰化したそうだ。
中国の件は、信憑性に欠けるし、真実ではないらしいが、そこからわかることは、大陸の国ではなにかいいことがあると、『これはわが国由来である。』と言い切ってしまう、という特性がある。
片や、アーチェリーの選手は、『日韓両国の皆さんに感謝する』というコメントをした。これは両国にとって大変喜ばしいことである。また、「韓国では4位になれば何をしているのかと叱られるが、日本ではお祝いの言葉を受ける」と語っているそうだ。日本では、当然メダルを取れば「おめでとうございます」と言うし、入賞してもしなくても『おつかれさま』くらいのねぎらいはするだろう。やはり国民性が違うのだろう。多分、選手を送り出すこと自体の意味合いが違うのではないか。中国や韓国は、国を背負って頑張れ、と考えるのに対して、日本の場合は『個人が頑張って国の代表となったのだから、実力を発揮してくれ。』と考える。もし、ダメだったとしても、国民が責めたりはしない(一部の批判は認められるが、じゃあおまえはどうなんだ、と逆に責められる)。国と個人のバランスで言えば、かなり個人に傾いた思考を行っている。
ただ、某掲示板で心ないことを書き込まれ、彼女が傷ついてしまったことは、日本人として心から謝罪しなければならない。

日本では、日本が送り出した学者が例えばノーベル賞をとっても大統領になっても、我が国由来だ、というレベルで論ずることはない。日本人の道徳として、日本国がエライとか、そういった表現は決してしない。あくまで個人賛美で、『今までに至る道は大変だったろうな。』とまず他人を思いやる文化を持っている。この思想はモノに対しても有効である。例えば戦前、アジア各地に水道施設を日本人は残してきたが、これを維持する能力はあくまで、現地の人たちの力である。この場合、『日本は水道インフラを現地に投下しました。』というような単調な表現であり、中国、韓国のような『我が国由来』みたいな情熱のある表現はしない。

しかし、日本人は逆に外国人が日本に言わば『亡命』のような形で『帰化』するとか、為政者のような形で『君臨』すると大歓迎する、という特性がある。古くは百済亡命政府、近世では『小泉八雲』、終戦後はマッカーサーをはじめとする『GHQ』、現代では北朝鮮に亡命していた『米軍兵士』のような事例がある。また、中国残留孤児などもこのパターンに当てはまるのではないか。
日本は、古くから『扶桑の国』とか『黄金の国』と呼ばれ、『桃源郷』を思わせるイメージを近隣諸国に植え付けてきた。また、日本国内でも近隣諸国と違い、『日本国内はいい国だ』と思われたい国民意識が民族固有のものとして存在しているようで、それが外国人にいい方向に働くようだ。確かに、反作用としての差別意識も働くようであるが、日本国内で『同化』する中でそれらの意識も消滅しやすい傾向にある。

このように、異文化の吸収力、また人種の同化『力』もある日本民族であるが、なぜ、このような文化が『日本のみ』成立しているのであろうか。私自身の結論は、『縄文文化』の存在が後世に良い影響をもたらしたのではないか、と考えている。ここからは、あくまでその理由を推測してみる。

日本の縄文文化とはいわゆる『ミクロネシア人』が創造した文化、と言われている。おそらく、ミクロネシア人は比較的移動を行い、土地に定着しにくい性質があったのではないか、と思われる。また、このような性質を持つ『人種』は『好戦的』な集団とそうでない集団とに分けられるのではないか。
日本に来た『ミクロネシア人』は比較的温厚な集団であり、他集団に交流、依存しながら移動を行ったものと推測できる。移動し、他集団に『寄生』し、食料をもらい、食料を確保し、子孫を残していく。そのために、他者を排撃することなく、良好なコミュニティを実現するために一種の道徳観念を発達させた。日本に特有と思われる『他者への異常な思いやり』がそれである。確かに欧米文化としての思いやりもあるが、これは『神に祝福される』ための思いやりである。たとえば、震災後に救出されたときのおばあさんのように、消防隊に対して『ご迷惑を掛けてすいません』みたいな思いやりではないのだ。もし欧米人が助け出されたら、『神に感謝します』というだろうが、日本人の場合は、助けてくれた人にまず感謝する。そして、自分を助けてくれた消防隊という組織を、自分のために出動させてしまったことを詫びる。日本ではごく当たり前のことだが、世界にはこれがまったく理解できない。なぜ理解できないのか。これが太古の昔からの『縄文型文化』の発露だからだ。
逆に、日本のために世界中が神に祈ってくれたが、実は、日本人にとってはこれがまったく理解できない…。しかし、日本人は世界中が『なんか知らんけど祈ってくれたやろ』と考え、手間数をかけたことを申し訳なく思い、世界中に感謝する。日本が世界中とつきあうためには、精神的な翻訳の構造が必要である。

座り込んで抗議するのは、日本では良しとされない。あくまでスポーツは審判に従うべきであって、科学的に1秒2秒伸びたからといってもあくまで審判の判断に従わなければならない、と考える(再度言うが、これは批判ではない。勝利にかける執念はあっぱれである)。でも、もし、相撲(国技)で座り込みをやったら(たとえ数秒だけでもそんなことをやったら)追放され二度と土俵に上がれなくなる。日本人は、潔いことを美徳とするからだ。ここで、自己主張をしてしまったら、自分はいいけれどもほかの人に迷惑をかけるし、他の人が責められることにもなる、と思考する。また、問題が起きたことはすべて自分のふがいなさからだ、と認める。これが、宗教化されていない至極道徳的な日本人の死生観にもつながっており、さらに潔さは『生命を軽視』することによる『穢れ』を極端に嫌い、これは逆に生命の尊重につながるのである。
そういえば、昔、聖徳太子という偉い人がいたが、この人の『十七条憲法』(十七条の憲法)は、日本人の美徳をよく書き表している。おそらく、聖徳太子や蘇我氏は、土着の民や渡来人と交流(多分政治的な議論が主体だろうけど)するうちに、日本人固有の思考と道徳を見いだしたのではなかろうか。

太古の昔から、日本列島は、朝鮮人、中国人、北方モンゴル人の攻撃や侵略、交易、移民、亡命を受けており、その後、弥生時代、飛鳥時代を経ていくことになるが、そこで注目されるべき事実がもう一つ存在する。
確かに、これらの民族の進出を受け一部は同化していく中で、政治機構や言語は大陸系のものに順次染まっていったに違いない。『ミクロネシア言語』についても文法は失われ、現在では地名程度しか、その痕跡をとどめていない。また、日本人の血液のDNAを調査しても、『縄文人』のDNAは一割程度しか残されていないそうで、純粋な縄文人などというものは、絶滅したといっても良い。
しかし、縄文人の残していった『精神文化』は偉大であった。現代日本人が持つ『道徳文化』のほとんどは、縄文人由来ではなかろうか。たとえば、前述の『救出していただいてどうもすいません』という表現に見られる、自分が決して労働の提供を受けてはいけない、他者に迷惑をかけてはいけない、といった精神構造があげられる。また、コミュニティを重視する『愛社精神』『会社人間』と行ったものもそうだろう。また、『勤労奉仕』が成立するのも一つの道徳である。例えば、道路が損壊しているのを発見すれば、大陸的な発想では、避けて他人の土地を通ってしまう。また、損壊を修繕したりしない。それでは、業者の仕事がなくなってしまう、という発想をするらしい。しかし、日本は『他者を思いやる』ために、迅速かつ安全に復旧させようとする。安全のためには、業者は儲からなくてもいい。業者が儲かるのは本復旧の設計以降だ、と考える。こんな事例でも大陸と日本ではこれだけの決定的な違いが存在する。震災時の道路損壊はほとんど行政が簡易的な設計により対応したものだが、この復旧スピードは世界をビビらせた。
中韓の道路は、ゴミが多く汚れている、とネット上では言われているが、日本の場合はどこに行ってもきれいで、よく修繕されている。これは、地元や沿道の人が『軒先や地域にゴミが落ちているのはみっともない』と考えて掃除を『勝手に』してしまうからである。また、子どもたちも比較的しつけられており、ゴミを捨てない文化を持っていること、道路が壊れていれば逐一行政に報告するなど、日本人の美徳は限りない。行政がやらなければ材料の支給を受けた上で勤労奉仕としてやっつけてしまう。これは、日本人全体に根付いた道徳である。
また、日本においては、このような道徳観が個人に大きく根付くあまり、宗教性をあまり必要とされない。宗教に対しては、神道も仏教もキリスト教もみんなひとくくりに『神様』としているフシがある。まあ、神道は日本文化に根付いているので、日本人の精神性を示すもの、ということもできるが、宗教といったジャンルでは少なくとも『神様』である。
たとえ、GHQがキリスト教を携えていたとしても、日本国民は『仏教中心』からそんなに変わることがなかった。これは、米国が戦争に勝ったとしても日本人の精神性まで『侵略』できなかったいい事例である。片や、この小論では同胞(といってもDNAレベルでかなりの部分が共通する、という意味)、といってもいいくらいの隣国韓国では、人口の3割がキリスト教徒(全宗教人口の6割に該当するらしい…)であるという。素直に驚きである。
確かに、この説明では日本に大乗仏教が根付いたメカニズムを説明していないが、多分コミュニティのアニミズムに『寄生』する形で拡がったと思われる。また、江戸時代のキリスト教も『神道』や『仏教』に同化する形をとっていたのでは…、と思われるフシがある。テレビで江戸時代から伝わるキリスト教の祭壇を見たことがあるのだが、『仏壇』と言っても良いほど『日本的』であった。
しかし、日本においてキリスト教がなかなか普及しないのは、唯一絶対神のみを日本人が受け入れがたいためである。なお、唯一絶対神も、仏も神も信じているのが、日本人の特徴とも言えなくもないが、信じる、とか祈る、という宗教スタイルでさえ日本人は正直理解できない。『現世利益』を祈願するなら理解はできる(笑)。
縄文型コミュニティは、山、川、海、草木、動物、雲、雨、太陽、月といった周りを取り囲むものからの利益を享受している、と考えた。また、時には災害をもたらすこれらのものをコミュニティの化身として投影するようになる。すなわち神である。コミュニティと神と個人はかなりの共通部分があり、個人も『神性』を備えていると考えられていたのではないか。
だから、震災後に世界を驚かせた、略奪の少なさや、礼儀正しさ、冷静さ、そしてずば抜けた治安を実現しているのだ。日本人すべてに神性が宿っているので、もし反社会的な行為をすれば、自らが何者かに罰せられる。これは国家ではなく、各個人に宿った神性により罰せられる(バチが当たる、という表現)、と考えているのである。

よって、日本人それぞれに宿る『縄文型コミュニティ』の縮図の総体が日本の神道と言うこともできるのだ。この考えは、『仏』にも通じるので仏教と神道とが排撃し合わずに普及(神仏習合)したのであろう。
某国は靖国参拝を非難するが、上記のメカニズムに基づいて言えば日本人の精神文化を否定、愚弄することにもつながる。このことについては、日本人はもっと怒って良いだろう。しかし、日本人自体が、自らの道徳が世界に誇るべきものと気づいておらず、さらにその道徳が神社に結びつく、なんてことは到底考えていない。当然、某国がこのような宗教観、倫理性を理解できるかどうかは到底無理だと思われる。日本人の道徳は世界中で日本人のみが理解できるのである。海外では、日本人は楽観的な運命論者、と評されたが、そんな難しいことは日本人誰一人考えていない。当たり前の行動をしているだけである。

昔、水戸黄門がテレビの中で言っていた言葉、『お天道様は許しませんぞ!!!。』この言葉を世界中に広めるだけで、世界平和を実現できるのに(笑)。理解できるのは日本人だけ、という悲しさ…。

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ミクロネシア文化はこのようにコミュニティ重視の平和的な文化を日本にもたらしているのであるが、日本を過去に征服してきた民族、部族にとっては、ハード的に侵略は成功したものの、文化的には逆に侵略されてしまった、ということもできる。その反面、ミクロネシアはいざ戦争となると『首刈り』を行ったということでも、その後の日本に絶対的な影響を与える。

班田収授法と墾田永年私財法は日本の経済を独自に発展させるきっかけをつくったが、これを守るために武士が登場してくる、と学校では習っている。しかし、過度とも取れる主従関係なくして武士は成立しないのであり、これは多分、『縄文コミュニティ文化』を背景に武士が登場してきたのだろう、と私は考えている。また、封建制成立の基礎ともなる大陸風の『論功行賞』制度であるが、日本では敵方の『首』を主君に差し出すことで褒美が得られる制度に変質した。この変化も縄文時代の『首刈り』制度が基本になっていると推測できる。日本の封建制は、このように『縄文文化』と『大陸文化』のバランス良い『混合』の結果成立するのであり、日本にもし『縄文人』がいなかったら、多分中国とも韓国ともそう変わらない道徳心であったのではないだろうか。
『縄文型コミュニティ型封建制』はその後、資本主義や愛社精神及び世界に誇るべき道徳に形を変え、今も我々に生き続ける。日本人がまじめ、勤勉と言われるのも、我々がバランス(規律、規範、道徳)の良い縄文人と大陸系の混合タイプだから、と言えるのではないか。大陸由来のDNAは9割を占めるが、縄文人の精神性は未だ生き続けているのである。

で、冒頭に話を戻すが、中国、韓国人の文化は『送り出す文化』で自らの国を誇る文化であると言える。しかし、我々日本人は全く逆な発想で、『迎え入れる文化』で訪れた方を歓迎する文化なのだろうと思う。たとえ、ムラが『侵略的渡来人』に征服されていったとしても、合一化したコミュニティ内で実は敵勢力を平和裏に包含し、また、為政者(の一団)に『神性』を植え付ける結果になっていったと思う。これが、日本人の発展エネルギーのすべての源泉であったに違いないし、世界中の人々に理解できない、そして賛美される日本人の精神構造につながっていくのである。

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新渡戸稲造先生は『武士道』を著しているが、『武士道』という体系がなぜ構築されたのか、は小論の立場から推察すれば、日本人の中には『縄文型コミュニティ文化』がその背景として存在するからである。現代でも李登輝先生が『武士道』を世界に広めるべき、と語っておられるが、『武士道』を理解させる精神的素養=『縄文型コミュニティ文化』の理解が必要である。これは宗教の教典のように明文化、体系化できるのであろうか…。日本人すべてに課せられた課題といって良い。

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