2012年7月15日日曜日

牛乳屋フランキーと静岡県酪農試験場(御殿場)と日本の畜産業 -時之栖(茶目湯殿と天空)-


今から10年ほど前だろうか。このマンションに越してきて、一人で休日の朝方、衛星劇場を見ていた時、一本の白黒フィルムに出くわすことになる。『牛乳屋フランキー』。あのフランキー堺の映画である。このブログは映画産業のブログではないので詳しくは書かないが、まあ、中身は昔はアリかな…くらいの映画である。喜劇、勧善懲悪、ラブストーリーが混じり合っていた。で、遊び心満載の昭和31年(1956年)の"実験的"作品。
この映画の後半部を寝ながら見ていたのであるが、突然ミュージカル風になってしまった。出演者が突然牧場らしき場所に背景を移し、踊り歌う場面である。当初、『またくだらねぇ場面が始まったな…』と思いつつ、ぼけーっと画面を見ていたのであるが、とあるカットで私の脳裏に衝撃が走ることになった。そのカットとは、カメラが出演者とともに収めたその牧場のたぶん『飾り』を映した場面であった。
時代は、昭和30年代、リヤカーや馬車、牛車といったものから急激に運搬がトラック(オート三輪)に移行している時代のことである。おそらくトラックを手に入れた国民はリヤカーや馬車を解体し、処分してしまったに違いない。しかし、その背景に移っている牧場には、処分したであろう馬車らしきものの車輪が『飾り』として存在していたのだ。おそらく、柵や塀の装飾代わりに使用したもの、と思われる。
その風景自体はおそらくたいしたものではない。言葉では言えないが、突然私は苦しむことになる。『この景色、どこかで見たことがある…。』しかし、思い出そうと思っても思い出せない。何度も過去を反駁してみたが、モノクロ映画の『ボケ具合』もあり、明確な回答を引き出すことができない。結局、私の中である結論で丸めてしまうことにした。その結論とは…。

私は、産まれてから2歳頃まで、ある牧場内の社員寮(長屋)に住んでいた。その会社の名前は、『静岡県育成試験場』もしくは『酪農試験場』という。母親が言うには、そこに1歳になるかならないか、くらいに別の場所に引っ越したらしいが、父親の赤いカローラとその手前にできた水たまりを未だ覚えているので、たぶん、十分に歩いていたものと推測されるので引っ越しは1-2歳の間、かなり2歳に近付いた頃ではなかろうか。その当時は、風呂は各世帯で共用だったし、私はよく近所のお姉さん方(小学生)と一緒に入っていたとのことであるが、残念ながら(笑)まったく記憶にない。当時はまだ『薪』をくべるタイプの風呂であった。夕方になると地域の各家庭から薪を燃やすときのいいにおいがしたもんだ…。
さらにその後、別のところにある社宅(官舎)に引っ越してしまったが、今の私より若いオヤジの勤務先が前述した試験場であり、また、私の通う『御殿場市立富士岡幼稚園神山分園』は時折、遠足で行く場所を試験場としていたのでよく行ったものである。また、職場の人間が総出で『搾乳』する光景など、そう見られたものではないだろう。いまでは、こんな作業も機械化されているので。なにしろ、私はこの頃から人の働く姿をぼけーっと眺めるのが好きなガキだった。しかし、好きなのは眺めるだけで自分が働くのが嫌いになってしまったが(笑)。
まだ、その頃の職場や地域社会というものは、『家族』的なところがあり私が一人で外をほっつき歩くとオヤジの職場の人や地域のおばさん方がよく声を掛けてくれたものだった。

その試験場には、入ってすぐ左のところにペンキで塗られた『車輪の飾り』(もしくは樽の蓋のようなもの)が存在していた。もしかして、牛乳屋フランキーはその牧場でロケを行った可能性がある。あくまで可能性で推測の域を出ないが、たぶんそこでは撮影はできない(確か事務所として使用されていた気がする)だろうから、そこにあった『飾り』を牧場内の別の場所に移動させたか、新たに映画のセットとして作られたものを撮影隊が引き揚げるときに置いていったか、どちらかだろう。それが試験場終焉の時まで(処分に困り…)飾られることになった。その意味不明なものが、私の幼少期の記憶のシンボルになってしまっている、ということも言える。『牛乳屋フランキー』のロケ地の記録をネットで探しても『御殿場市』は出てこないので、関係者で存知の方がおられたら教えてもらいたいくらいである。あの牧場は本当はどこ?*。

当時の試験場は、肉牛、乳牛をはじめとして、羊もやっていた記憶がある。羊毛の刈り取りも目撃したし、おそらく実験用でつぶしたラム肉を食わされた覚えがある。庭に置かれた七輪で炭火焼き、オヤジたちは『バーベキュー』と称していた(今思えばなんという贅沢…)。ラム肉は安いので学生の頃に食べた覚えがあるが、やはり過去を反芻し『ああ、あのときに食べたのかな。』と『苦しみながら』思い出した次第である(笑)。

2歳から小学校入学前までは、上述の通り別の官舎に住んでおり、風呂上がりはやはり実験用に搾乳した牛乳の残りを煮沸消毒後に飲まされていた。誤解のないように言っておくが、その後聞いたところによると実験用の肉や牛乳の余り物でも、県から購入(たぶん給料から天引き)したものであったそうだ。骨粗鬆症の検査で私の骨が異常に硬いという結果を出すのも、この頃のこういった食生活が元になっていると思われる。

試験場に話をもどそう。
その場所は県試験場がくる前に、農林省の施設(農林省種羊場)として使用されていたものらしい。時之栖に入ってすぐ中央部分に桜の『林』があるがこれはその当時植えられたものであるとのこと。春、幼稚園の遠足で、満開の桜の木の下で弁当を食べていたら、担任の先生の弁当に虫が落ちてしまい、先生はそこで弁当を食べるのをやめてしまった…記憶がある。昭和48年の春のこの出来事は、予備校時代、幼稚園をともに過ごし予備校寮で部屋が隣同士であったM君も記憶している。
では、県の試験場は、どこにあったか。戦後すぐに就職したオヤジは、沼津駅の近くにあった、と言っていた。『静岡県種畜場』というものだったらしい。どうも、戦前の合衆国は中国を市場にしたがったけれども日本が満州国建国とか茶々を入れるので挑発し戦争になってしまったが、戦後、とりあえず日本を市場化(消費地と)し、さらに東洋のデンマーク(非工業化)とするためにアメリカ産の牛乳や肉を売りつけよう(給食制度の始まり)という中で、生産においてもプランテーション(まさに植民地…)を導入しようとしたものの、日本政府がそのプランを拒絶。しかし、あまりに日頃お世話になっている合衆国様に悪いと思ったのか、官製主導で牧場経営をしようとしたもの、と私は推測している(証拠はまだない)。
実は沼津種畜場の開設は昭和4年であるのでその説は正しくないのだが、ソフト的には、戦後になって静岡県は米国にてホルスタイン種の買い付けを行っているはずである。日本のホルスタインの再導入及びアメリカ式大規模牧場経営はまさにこういうところから始まったのだろう。これは間接統治の強みであり世界に特異な存在としての日本民族の特性であるということができる。日本人は外から『核』を注入されれば、それを自己の個性で育て産業化することができる。日本人はまさに『真珠』のような存在である。まあ、オヤジは決してそんなことは言わなかったが。たしか、種畜場の位置をオヤジがぶつぶつ言っていたときは、兄貴が30代後半でなぜか盲腸となり入院し、その帰り沼津駅まで車で送ってもらった際での出来事であった。『今から50年以上前に沼津駅で降りた…。』『種畜場がここを曲がった先にあってな…。』。
いつだったか、オヤジのある写真を見た覚えがある。牛舎の中、当時の県知事の傍らで牛舎の概要を説明しているであろう若かりしオヤジの勇姿であった。ある時には某女優さんの写真を家に持ち帰ってきた。わけを聞くと、東京に距離が近いこともあり、ロケ隊が来た、とのことらしかった。今ではオヤジのみならず兄貴までも故人となってしまったが。

その後の試験場については、昭和49年に富士宮市の朝霧高原に全面移転することになってしまう(現畜産技術研究所)。移転とともに羊は研究対象から外され、肉牛と乳牛に専念することになった。これとともに私の『牧歌的』な幼年時代は終わりを告げることになった。
さて、その試験場敷地はその後最上興産に売られたがたいした活用はなされず、十余年ほど事業化されない土地であった。その後、米久が温泉を掘り当て、今は時之栖として人々の癒しの施設として供されている。

時之栖に、気楽坊という有名な温泉施設のほかにちょっと奥まったところに茶目湯殿という別の施設がある。そこは気楽坊とは異なる源泉を使用しているとのことで、確か数年前まで源泉は『しょっぱい』味がしていた。今はその味は抜けてしまったけれども。
そこに天空という露天風呂が併設されているが、そこに入ってまた私は苦しむことになってしまった。確かに40年以上前私はこの地に住んでいたことも当然わかっているのだが、その悶々とした苦しみは、『この位置は試験場のどの位置なのだろうか。』ということと、壮大に見える富士山の麓が『いつ』見たものか、ということに尽きるのであった。
もう、40年もたっているので、正直そんなものはどうでもいいとは思うのだが、人間の本能はどうしても幼年時代に見た景色と現在の景色を見比べて、どんな変化があったのか、どの位置に私はいたのか、さらにはここに至るまで私はどんなことをしてきたのか、を反芻し、無駄だと知っていてもその記憶の切れ端をつなぎ合わせそこに合理性を求めようとするようである。たぶん、幼年期のその後の人格形成に与える影響、役割は多大なものがあるのだろう。

そこには結論なんてものはまったく出てこないのだが、長時間悩み苦しみのぼせてしまいかつ精神が悶々となった私は、風呂を出てから、自販機で100円で売られている冷たい瓶入り牛乳(国産)を買い一気に飲み干し、どうでもいいか…とつぶやきつつ多少はさっぱりとした気分で時之栖を後にすることになるのであった。

本日は日曜日。さて、天神の湯でも行ってくるか…。

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*未確認な情報であるが、フランキー堺が招待される牧場のシーンは森永の牧場ではないか、という情報がある。そこと『歌い踊る』シーンが同一かどうかはわからない。森永乳業はこの映画でスポンサーをつとめていたとのことである。
* Amazon プライムビデオで見つけたので、再確認してみた。あのあたりで、この規模の牧場はやはり静岡県酪農(育成・畜産)試験場ではないか、というのが大方の見方である。





2022年12月17日追記
富士山及び箱根外輪山の写真をアップする。




 多分あと200-300メートル北側で撮ったなら、ドンピシャな写真になったと思う。この映画の牧場のロケ地は『森永牧場』ではなく、静岡県の試験場だったと私の中では特定となった。
 さらに、その後に始まる戦闘シーンの挿入では、富士山が曇っており、また富士山麓っぽい映像ではあるものの、近くに多分1,000メートル程度の山が見えてたりするので、このシーンのみ富士宮朝霧高原で撮られたものかもしれないなあ、と思い始めている。山の形が長者ヶ岳っぽい。ただ富士山西麓からだと『愛鷹山』を意識するが、それはないんだよな。ちょっと断定までには至らない。

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