2013年9月21日土曜日

iPhoneのスピードテストの結果は特定キャリア誘導のニオイが…?

世の中、iPhone一色である。この時期にはiPhoneが発売されることが多く、また、今回はいよいよ『通信の巨人』docomoさんがiPhoneを発売するとあって、世の中の注目を浴びている。
さて、発売後、こんな記事を目にした。

で、実行速度計測値も転載する。
出典 : http://japan.internet.com/allnet/20130920/2.html

いきなり批判するわけじゃないが、なんか信用できない。調査地点が本当にこの5箇所だったんだろうか。たとえば、50箇所調査して、ソフトバンクの速かったところだけ抽出して、こういう記事を書けば、世の中をソフトバンクに誘導する記事は書けるからね。

ということで、しばしネット調査してみたら、
『マイナビ』にて全然異なる記事を発見した。

【レポート】
この記事によると、アップルストア2店舗およびJR駅2箇所において、実行速度試験を実施したのだという。
とりあえず、記事を参考にして前者に似たExcel表を作ってみたのでご覧いただきたい。

データの出典は、『マイナビニュース』の記事が原典であり、前掲の表と比較するためデータを当方でExcelに入力した。
圧倒的にKDDIが勝利している。一箇所のみ上りがSoftBankに惜敗しているのだが、僅差であるので全勝といっても良い。

しかし、この二つの記事は相異なる結果を出している。なぜなんだろうか。そういえば、前回KDDIからiPhone4Sが発売されたときも、こんな記事を目にしたような。
ただ、場所の抽出といった面では、後者の方が『アップルストア』、『駅』といったものに限定されているので比較的信用できるが、前者(インターネットコム)は前述したように速いところだけ抽出して記事を書いているかもしれない。いやいや、双方とも、利益誘導的な記事を書いているかもしれない。やはりこの場では判断できない…。


残念ながら昨年度末の結果ではあるし、iPhone5の結果でもあるが、この結果を見るとソフトバンク優位の結果の信憑性はやはり薄れてくる。

出典 : http://mmd.up-date.ne.jp/news/detail.php?news_id=1127
なお、スマホの使いやすさを決定するのは、SpeedTestによる結果だけではなく、実は反応速度である。総じてソフトバンクは「遅い」という評価であり、これは、キャリア設備の出来不出来(主にネットワークスイッチ)もあるが、DNSサーバーの反応なんかも影響している。

ただ、私の非LTE機F-12C(IIJmio)と同僚のiPhone5(SB)と静岡市内でスピードテストを行った結果、SoftBankのiPhoneは10MB超えをしており、一方私のF-12Cはクーポンを使用して3MB程度であったので、一時期のソフトバンクと比較するとそれなりの努力は認められるようだ。まあ、そもそも比較にならない、競ってはいけないスペックであるかも知れないが。

まあ、キャリアは現在スピードを競ってうれしいんだが、一般のユーザーはスピードに対してどう思っているのだろうか。携帯にネットのスピードを求めるユーザーは極々一部であり、大多数は、500kでも10Mでも大した差は感じないのではないだろうか。一部のユーザーのために過重な負担を求められているのが現在の携帯キャリアであり、キャリアはその投資費用を顧客全体から回収している構図がさらに浮かび上がってくる。
そういった意味でMVNOの商売方法は至極効率が良いとも言える。さらにMVNOは、端末やIP電話等も一体で販売すれば、もっと普及すると思われる。というのも、個人的にMVNOの説明をしてあげても、難しい、理解できない、と言われることが多いからだ。ただし、MVNOも設備といった面では大多数のdocomoユーザーに支えられているところであり、そのユーザーがいなければMVNOもなかったといえるので、キャリアユーザーを無視するわけにはいかない。

だからこそ、キャリアは低速(パケット制限なし)でかつ電話もできる端末を具体的には月総額2,000円以内で提供していけばそれなりに人気を集めるだろうと思われる。このブログでも以前書いたが、『Tu-Ka』端末の再来を結構ユーザーは望んでいるのである。

スピードテストの結果から、話は横道にそれたが、本論の結論としては、『スピードテストの結果は大多数のユーザーは興味がなく、別にスピードがでなくても普通につながることと、月額料金の安い端末を出してくれればいいよ。』ということになる。当方、当分IIJmioは換える気はなし。

2013年9月19日木曜日

リニア「新甲府駅」と「新富士駅」の失敗 (身延線延伸問題)


私は生粋の静岡県民であり、隣県の行政決定なんかは興味ない。
しかし、今回、リニア新幹線の甲府駅の位置決定がなされたとの報道を受けて、建設予定地をちょっとばかり調べてみた。

甲府市大津町周辺。こちらがリニア新駅の建設予定地である。新駅周辺はのどかな田園風景が広がっており、いかにも広大な用地を買収しやすいところである。駐車場とか。
その反面、近隣にパナソニックやNECの工場があり、産業側にもいい顔はできるだろう。
また、平和通り(国道358号線)に接しているおかげで、甲府、塩山、大月までの所要時間も8~6分短縮できるそうだ。甲府駅まではまあ車で20分程度らしい。

どこと比較したのか。これは、JR身延線小井川駅周辺である。比較的人口密集地で、建設事業費は100億円ほど大津町案より高くなってしまう。しかし、JR東海との交差ポイントがあるので、私は一番現実的な案として採用されるだろう、と思っていた。しかし、山梨県の行政はちょっと違っていた。

知事および側近により検討はされたものの小井川駅案は高い、という理由で却下されてしまった。そして、『期成同盟会』に県案は提出され、全会一致(意見なし)だったらしい。
あえて、言わせてもらおう。新幹線は在来線との複合駅が当たり前である。この決定はまれにみる愚策としか言いようがない。アクセス問題については山梨県民のブログ等もたくさん拝見したが、ノンストップのシャトルバス、専用道路を使った「バス高速輸送システム」(BRT)、身延線常永駅からの身延線延伸、甲府駅からの夢のモノレール建設も視野にあるようだ。しかし、結局、身延線延伸案を除いては甲府まで乗り継いだとしたら乗車券は新駅で切れてしまう可能性があり、そこからはさらに別会社(富士急行とか…)の切符も買わなくてはならなくなる。

というのも、新幹線は原則在来線の距離で計算される。独立駅である新富士駅は乗車券について当初、富士で降りても新富士で降りても料金は変わらず、新富士駅経由でも身延線に乗り換えが可能です、という説明をしていた。そういう中で私も、新富士→富士(身延線)に乗り換えたクチである。
しかし、2-3年たったら、新富士で乗車券を回収されるようになってしまった。社員教育の問題かもしれないが…。
新富士駅は1日あたり5,000人の利用があるが、実は富士駅とのアクセスが悪く、おそらく、富士、富士宮市民、そして山梨県民は相変わらず、静岡、もしくは三島駅の利用も多いのではないか、と思う。上記の乗り換え問題もそうだが、新富士からバス利用をすると、バスによっては富士駅の発車時刻よりも遅く着いてしまう。目の前で身延線が発車してしまった、なんてことも体験したし、よく聞く。こういうことにならないためには、新富士駅を利用するのではなく、付近の新幹線駅を利用し時間の読める在来線を利用した方が、精神的にも、実は料金的にも実に良い。(実際、この問題は富士急行のバス時刻表の組み方が糞なだけだったと記憶しているが)

しかし、こんな小さな問題だけではない。好条件地がありながら、たとえば、100億円という差で安い土地に逃げること、これが今後100年200年続くと思われる社会インフラに対しどの程度の意味があるのか。甲府の商工会議所の出したモノレール接続案なんかは500億円かかると言われている。山梨県民がこの程度の計算ができないとは思わないが、田んぼの真ん中に駅をつくり、身延線をそのうち延長しますっと言われ続けた富士・富士宮市民の失敗を学んでほしい。富士市民はこういった社会インフラの誘致はなぜか苦手で、無駄な投資や利益をみすみす逃す判断ばかりしている。過去に、新幹線と東海道線の併走を認めず、新幹線と身延線を市街地から田んぼの方に追いやり、結局、解決できない問題を後世に残してしまっている。それでも東海道線の交差ポイントが存在するのに設置の際、そこには新駅は建設できなかった。
ただ、富士から新富士駅に向けてちょうどいいところに会社線(構内線)があり、それを利用しても建設費用は130億円かかるだと。だから、富士市としてはこの案は採用できないんだという(富士市が建設しても、富士宮市と峡南峡北民がそのメリットを大部分享受する、だからやりたくない、という気持ちも当然あるだろうが、そもそもこの地域の人が新幹線問題で苦労したのは正直、富士市の誤った判断が原因である)。まあ、甲府のモノレールより安いが、建設しても回収できないからだめだ、と。結局、こういう議論になってしまうから、最初っからできるものはやっておいた方がいい。決めておいた方がいい。
さらに、富士市の議論は極端で、まるで富士市が自ら鉄道経営をするような視点で投資金額とその回収について分析している。130億円を回収するのに新規鉄道では毎日26,000人の利用者がいなければいけない、という分析である。これはやめてもらいたい。行政側が建設するにしても、補助対象経費のうちいくらかは富士になるかもしれないが、身延線は富士宮や峡南、峡北、そして静岡県、山梨県が絡むので各自治体が負担すればよい。そして国もしくは鉄道・運輸機構あたりが1/3くらいを補助金として出してくれるはずだ。しかも、笑っちゃう話であるが、富士市・富士宮市の一般会計規模は併せて1,100億円を超える、という規模であるのにどうして公益的な建設事業であり、しかも建設債を使用でき何十年にもわたって返済できる130億円のうちの何分のいくつかも負担できないのか。
このあたりは直接税金投入が考えられるので、コスト回収の議論はする必要がないと思われる。税金投入の意味するところは、その地域全体で負担する、ということである。利益が出てもJR東海が持って行ってしまうからね。議論すべきは身延線の経営を行っており応分の負担をさせられるJR東海であり、行政側は議論するだけ無駄である。これだから公務員は…、と言われるかもしれないが、一般市道や街路の建設だってコスト回収は表だって議論しない。これは「公益」で「自治体しかできない」仕事なのである。行政が負担する社会インフラの整備なのになぜ経営的な資金回収の話になるのか、どうつながるのかまったくわからないのである。
しかも、身延線は相当の赤字を出しているにもかかわらず、利用できる要素(ブレイクする可能性)のある新駅建設について、JR東海が強硬な態度を示さないのもおかしい。自らの路線の利用者をもしかしたら倍増できるうまみのある話なのに、最初っから黒字化なんて…、とあきらめてしまっている部分が見られる。商売として、そんなんでいいのか。いくら、地元優先を標榜するにしても経営主体はJR東海ではないのか。
身延線全線はかなりの赤字路線としても、富士から富士宮までは結構儲かっている、という話も聞いたことがある。 ここは是非行政側に投げかけを行ってもらいたいものだ。

まだ新富士駅なんかはいい方で、ほんとにやらかしちゃってるところは新尾道駅だが。

素直に身延線に駅を作っておけばそもそもたいした駐車場整備もいらないはずなのに、最初からモノレールとか新交通システムなんかあてにせず、新駅が建設されてしまう前に県民による圧力を行政側にかけ、撤回させる方が財政的にも政策的にも正しいと思われる。

一方で、県リニア活用推進懇話会の座長を務める花岡利幸・山梨大名誉教授は「バスだけでは不便だ」と指摘し、身延線との連結に向けた交渉を進めるべきだと提言する。「いまの議論はリニアに乗る人の方を向いている。『使われない駅』になる危険性がある」
出典 : http://www.asahi.com/travel/aviation/TKY201111050444.html

同感である。こういった独立駅の場合は、『その地域』しか利益を享受できず、ましてや『新甲府駅』の場合はせいぜい甲府市、中央市程度の住民くらいしか利用できない。今回の新設は県域駅であるので、県全体が等しくメリットを享受するには、といった行政でやるべき当然の議論に欠けている(アクセス時間で何分短縮、なんていう話は棄却すべきである。一時間も違えばそりゃ考えるべきだろうが…)。甲府駅からいちいち細かいバス路線、他社路線に乗り換える、しかも、交通事情により乗り遅れる危険性も孕むということは、それだけで敬遠される可能性が出てきてしまう。しかも、都内アクセスとしての『かいじ』も将来的に廃止される可能性がある。山梨県全体として在来線交通を考えると、新駅開業後は今よりも不便になる可能性があるのに、そんな在来線と新幹線の法則も理解しないで山梨県庁は独立駅を選定したのであろうか。
幸い、山梨県の場合は競合する他社の特急同士であり、廃止されないことも考えられるが…。どちらか廃止しなければ共倒れになるレベル?かもしれない。

とりあえず、どういう案で比較したのか、隣県にはご愁傷様でした、と申し上げておく。

なお、山梨、静岡両県民は世界遺産を通じて、今後たくさんの人を呼び込まなきゃならないという共通命題がある。その中で言わせていただくと身延線に新駅があった方が、静岡側のメリットまでもそこから利用することができるだろうし、負担金という形で協力を求めることもできるだろう。リニアで新甲府まで来て、身延線沿線の車窓を楽しみ、富士宮の浅間大社にお参りして、新富士から東京に帰る、みたいなツアーも企画できる。まあ、新駅の冠に甲府市の名前を入れたかったという、甲府市の思惑は感じるが、甲府市のためだけの新駅ではないので遠慮してもらうほかない…。

あっ。もう田んぼの中の新駅は決定だったな…。ご愁傷様。

2013年9月16日月曜日

台風20号(昭和54年)

本日の台風で思い出した。
私が小学校6年生ときの10月19日にものすごい台風が日本列島を駆け抜けていった。その台風の威力はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/昭和54年台風第20号 に詳しく載っているが、中心気圧の低さとしては歴代でトップ、気象衛星ひまわりの写真をみても、日本全体を覆ってしまっているようなでかい台風であった。

前日から、当然警戒モードであった。担任の教師は自らが伝え聞いた経験、小学生の女の子が傘ごと風に吹き飛ばされて川に流された話をし『川には近づくな』と言っていた。
朝6時、室戸岬に上陸、まだ私の住んでいた地域はどんよりとした曇り空で、しかも、10月下旬にもさしかかろうとするのに、生暖かく、湿った大気であったことを覚えている。
授業途中から、外は暴風雨となり、職員会議が開かれ『全校帰宅』の措置がとられた。町内会ごと通学路別に班を構成し、最上級生としての私はその班では一番家は遠かった。しかも、普段使っている通学路とは違う通学路を集団下校の際は強いられる。

当時の私はその地域を見ても由緒ある小学校だったらしい。全校確か1,800人ほどであったが、7割ほどは木造校舎で構成されており、また木造のうち半分は昔の県庁舎を移設したとされる建物であった。そんな中、児童の安全を確保できない、と判断したことも容易に想像できる。

さて、集団下校の際、今まで経験したことのない風雨が我々を襲うことになる。雨が川になった路面を波のようにたたきつけるような、という感じだった。傘などなんの役にもたたない。子どもたちを先導する大役を仰せつけられた私は、早々に傘を差すことを放棄した。
子どもたちは、かたち上まだ傘を差している。歩いているほかの子どもたちは順々に帰宅していく中で、私を含め、3人の子どもの行軍となった。ほかの二人は、姉妹で上は小学校四年くらい、下はまだかなり小さい小学校一年生、美人であったお母さん譲りで(私もお母さんには親切にしていただいた)、今はお二人とも大変な美人になっているだろう…。

そして、最大の難関にさしかかる。
私の住んでいた地域は、富士山南麓の緩やかな傾斜地にある。といっても、昔からそれなりに開けていた地域ではあるが、小川も流速を増し、傾斜を削り、20-30メートルの谷を構成しているような地形もあり、その上を四車線の国道が一段高くなって横断していた。国道に出たとたん、突風が我々を襲うことになった。しばし、動きを止めたが、小学校一年生の妹さんのほうが騒ぎ出した。先を行っていた私は急いで彼女たちのところに駆けつけた。
『傘が壊れちゃった…』
半ば、泣きべそである。
その傘を取り上げちょっと見てあげたが、直すのをすぐにあきらめた。というのも、直すのが難しかったからではない。その姉妹の家まではあと400mほどであったが、50m程手前に橋が架かっており、眼下には斜面を駆け下る流速により深くえぐられた谷がある。そんなところを小さいこの子が傘を差していって、吹き飛ばされたらひとたまりもない…。川に吹き飛ばされた担任教師の話が脳裏をよぎる。
「もう傘を差す必要もないよ。俺も濡れてるだろ。このまま傘を差していっても危ない。このまま行こう。」
と説得し、そして、その橋に差し掛かった。なんせ、史上最大であり最低気圧の台風で、最大風速は70mである。俺は、彼女の体かランドセルか、つかんで力を入れすぐには飛ばされないようにした。まあ、小学校六年生にしては私も小さい方で頼りないんだけど、それなりに役に立つだろう、と思い、それなりに緊張した数十秒であった。眼下では、今までに見たことのないような濁流がすごい勢いで流下している。

何も起こらなかった。相変わらず強風ではあったが、吹き飛ばされなかった。
本当に安堵したのは、彼女らを送り届けたあとである。まだ、台風の威力もすごかった時間帯であるが、その後は家と斜面と道路しかないところで、側溝にわざと入ったりしなければ流されたりしない。平然と濡れながら一人で歩いて帰った。そもそも私は比較的安全な通学路を使っており、彼女たちの家から20mも歩けばその通学路に出られたし。

翌朝、学校に行ったところ、鉄筋コンクリート製の校舎の窓ガラス(金網入り)が吹っ飛んでいる。担任に聞いたところ、台風の風で割れてしまったとのことであった。まあ、クラスの悪ガキがピンポン球をぶつけてしまい、ヒビを入れてしまっており、それが強風により割れてしまっただけのことであるが台風により割れたことには違いなかった。

中学に入って、隣の小学校から来たやつに聞いたんだが、その小学校(元々は私の小学校から分離した学区で構成される新設校)は、台風のとき、授業をしてたそうである。私のところは強制下校で、しかも恐い思いをして…、まあ、しょうがないかもしれないけど、今の私がもし校長だったら全員学校待機くらいのことはしたかもしれない。まあ、私のクラスは弱っていた窓ガラスは割れたけれども、ほかに被害はなかったので。ただ、避難(当時、講堂を解体してしまい体育館建設中)先がなかったかもしれないので、緊急点検の上、一部避難の措置をとるのが望ましかったと思う。むやみに避難や下校の措置はかえって危険にさらすことになる。風雨が強まる前の下校措置ならわかるが、危難の最中の下校措置はかえって危ない。安全な教室に避難させるのが正しい措置ではないか、と今では思う。我が市の教委の判断はいい加減であった。隣の木造校舎を使用していた中学校では、下校の措置はとられなかったし。

というのも、私の地域の被害は幸い人的被害は少なかったが、深刻であった…。
地域全体では、水の猛威により、川岸が大幅にえぐられてしまったようで、隣の川では30mくらいの吊り橋があったのだがそれは流されたし、下流にあたる駅のちょうど真下の川岸護岸用玉石コンクリート(今の知識で言えば擁壁であるが)などは20-30mに渡り、川岸から剥離し、しかも川の中で半回転して、裏側になってひっくり返っていた。そんな被害があちこちに残っていた。川の猛威を感じた瞬間であった。
ほかの通学路では、やはり国道下の河床を利用した地下道があり、そんなところでは上級生が適宜判断しただろう。そんなところを利用したら場合によっては流されることになるだろうと。先生たちは通学路がどういう状態になるのか、余りよくわかってなかったのではないか。まあ、今でもそうだろうけど、常識的な判断をしたとはとうてい思えないのである。
田子の浦では、貨物船『ゲラティック号』が砂浜に打ち上げられ、一種の観光地になっていた。まあ、この船は助けを呼ぼうとした船長が波に揉まれてしまい結局二人の死者も出しているのだが、砂浜にきっちりはまってしまったその巨大な姿に驚嘆した覚えがある。今は、田子の浦海岸、丸石むき出しの海岸線で砂浜も少なくなってしまったけれども、昔はまだ砂浜があり、波打ち際までの距離も今の1.5-2倍くらいはあったと思う。
親父の職場では、小さな事務所が強風で50mほど別の位置に移動してしまった、ということも聞いた。
下校中の小学生がこんな被害に巻き込まれなくて良かったと思う。

当然、地域全体は激甚災害の指定を受け、川は基本的に3面コンクリートで塗り固められてしまったので、直後は魚も絶滅してしまったようだ。しかし、あれから何十年もたっており、川岸は無理だが、川底は堆積する土砂により比較的自然を回復してきており、少しは魚が戻ってきているのではないか、と思う。

2013年9月1日日曜日

大日本帝国憲法は生きている??? (大日本帝国憲法の有効性議論)

大日本帝国憲法は生きている???

法学徒であった頃、当然憲法とか履修はしたんだけれども、暇なときにふと『大日本帝国憲法』を読んでいてちょっとびっくりしたことがあった。
中学、高校時代と、『公民』や『政治経済』で、大日本帝国憲法は近代憲法として劣っていたから改正した、と教わる。たとえば、天皇主権から国民主権(象徴天皇制)に変化したこと、生存権を明記したこと、天皇による恩恵的人権から不可侵な基本的人権への変化、国会の協賛機関から国権の最高機関への変化、内閣の行政権の輔弼機関から最高機関へと変化した、ことなどが改正の内容として挙げられる。
そういった細かいことを気にせずに読めば、大日本帝国憲法は立派な憲法である。そして日本国を動かしていたのである。決して劣ることはない憲法である。

稚拙な法学徒の頭で当時考えてみたが、どうも大日本帝国憲法は『廃止』もしくは『停止』の措置がとられていない。法学的に言えば、大日本帝国憲法の『全文改正』の手続きによって、『日本国憲法』が定められたのだが、普通、改正って『第何条の某という語句を甲に改める』と言うのが普通である。『全文』を『改正』する手続きが大日本帝国憲法上有効かどうか、疑わしいんじゃないか…と思った記憶がある。法律改正であれば、少なくとも『第何条は下記の条文に置き換える』くらいやっておかないといけないといけないのでは…、と率直に思ったのであった。学会の議論で言えば、憲法改正限界説(そもそも大日本帝国憲法の改正する範囲を超えてしまっている、と考えている)や真正護憲論(新無効論)(制定の経緯が国内法、国際法、条約等に反し、原始的無効と考えている)と言うらしい。

おそらく、米国押しつけの憲法をそのまま国会に提出することになったが、本当はこのまま行かせたくない。でも、日本は占領下であるから前文や条文に爆弾を仕掛けておいたのだろう。そして、後世の議論に任せたつもりだったのではないか。

さて、あれから憲法学を履修してから私自身25年もたっているのだが、いまさらではあるが、『日本帝国憲法の無効性』をネット検索してみたら、やはりそのような論議があるようだ。ただし、私が思った手続き上の瑕疵ではなく、
  当時軍事占領下だったんだから、サンフランシスコ平和条約による主権回復により、占領下の憲法(占領憲法)は当然停止されるべきだ。これ(主権回復)により、大日本帝国憲法は自動的に復活している。
  大日本帝国憲法は『朕』が『公布』しており、その改正手続きに則り日本国憲法は『朕』が『公布』したが、前文はいきなり、『国民は』になっており齟齬を来している。
というのがあるらしい。そのほか、難しい言葉でおかしいって言っている学説も…。

まあ、現代社会でまともな議論にはならないだろうけども、法学の『ロマン』として私も、大日本帝国憲法の有効性を論じてみた。
確かに、国民主権の憲法を先に考えておいて、後から『天皇制』を付け加えた結果、現行憲法の骨子ができあがったのだろう。現代語の表現で言えば、とってつけたような…である。そもそも天皇制は日本国家の骨であるのに、前文に一言もないのはやはりおかしいのではないか。
挙げ句の果て、
第一条[1] 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
なんて言っちゃってる。そもそも日本国民は分断なんかされておらず、いまさら統合なんて言われても、というところである。また、国民の総意があれば、『天皇制』を廃止してもいい、と裏で言っちゃってる。日本人の統合を理解しなさ過ぎである。
いかにも、移民の国かつ連邦国家である米国が安易に考え出しそうな条文である。たとえば、『大統領は、合衆国の象徴であり合衆国国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する合衆国国民の総意に基く。』に書き換えるとしっくり来ちゃうんだな。
さらに、上諭で天皇が公布したのに、前文で天皇は無視され国民主権だと言い、さらに1条で『朕』は『国民の総意』と無理矢理定める、日本語的には破滅的な理論で語られている。
わかりやすく言えば、裁判所で『主権存在確認の訴え』を天皇と国民が争ったら、天皇が負けた。裁判官をみたら天皇だった…、みたいな違和感を感じるのである。

しかし、それでも日本側の担当者は痛切なスパイスを前文に組み込んだようだ。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。』
まさに、戦前のABCD包囲網により戦争に引きずり出されたことを言っているんだな、と思った。もう二度とアメリカさんあんなことしないでね、と言っているんだな。普通、憲法では自国のことを言うもんだが、ここの部分は『各国の責務』とまで言っちゃってる。世界平和は政治道徳がなければいけませんよ、って言ってる。中国も朝鮮もこの辺は勉強すべきだろう。

そして前文最後に
『日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。』
言い換えると、敗戦国の『日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。』けれども、連合国さんはどうなの?。俺らを戦争に引きずり出しておいて勝手なこと言うなよ…。
と言ってる…。
なかなかやるな。日本国憲法()

2013年8月29日木曜日

日本人の宗教性

本日、職務命令で(笑)休みをいただいた。まあ、嫁と仲良くするわけでもなく、10時に近所の温浴施設に行き、昼飯食って、昼寝して、本を一冊読んで帰ってきただけの一日であった。

読みたい本も特にない中で、「パレスチナから来た少女」という、ハードボイルドな小説を読んでいた。舞台はパレスチナ、イスラエルとの対立の中で難民が虐殺されたことがあった。一家惨殺の中で、実は幼女だけが生き残り、ある日本人ジャーナリストに保護され、その後日本人となってしまう少女の話であった。それとは別に、ある生き残った少女はテロリスト(コマンド)としてユダヤ人を多数暗殺するが、その二人が日本でなんと…。
というストーリー。

物語自体はサスペンス的で動きがあり、また、史実に脚色されたストーリーであるので一気に読んでしまった。文体もなかなかきれいで読みやすかった。本当は、この本の読書感想文でも書くべきであるのだが、私は別のところが気になった。それは…。
日本人の宗教性
である。

日本の経済は、班田収受の法と墾田永年私財の法が基本であると前に述べた。ところが本当は国有制だったものが(制度の疲弊と官の怠慢などで)事実上農民の私有となってしまう中で、また開墾されたものは私有となることを保証されれば、勤労意欲が高まるに違いなかった。それとともに荘園制が成立していく。荘園の親玉は領主であるに違いなかったし、平将門以降、荘園が別の荘園を配下とする中で、また別の勢力と戦っていく、という構図が成り立っていく。また、戦国時代などは荘園の国盗り合戦のようにも映る。
ところが荘園は、武士や農民だけではなかった。寺社も寺社領として荘園を所有していた。比叡山の僧兵とか、一向一揆などは結局のところ、宗教側の荘園が別の荘園と戦った構図である。正直今の日本の宗教とは全く違うのである。宗教は『武力を持たない』のは日本ぐらいなものであって(例外的に近年革命を標榜する某宗教団体も存在したが)、世界は未だ『宗教は武力を持っている』し、過去の日本においてもそうだったのである。
なぜ、宗教団体が武力を持たなくなったのか。これは、井沢元彦氏によれば、信長に代表される宗教側への攻撃と、秀吉に代表される『検地・刀狩』の存在が大きいようである。戦後の領地没収、武装解除は日本に平和をもたらすきっかけとなったのだ。
さらにもう一つ挙げるとすれば、日本人の宗教性がある。そもそも万物に神が宿り、人間は神として奉られ、さらに人間は『仏』である、となんでも神様となってしまう宗教性は、いろんな宗教をもその精神性の中に取り込む性質があったのである。地域の日本人特有のアニミズム、いわゆる神道の『寛容さ』がそれぞれの宗教に存在意義を与えた、と言おうか。
この精神性と武装解除の考え方が、たとえば朝鮮半島や台湾の統治にも影響を与えたのではなかろうか。急速な近代化と経済発展は日本的な考え方が土壌になったに違いないだろう。当然反論もあるだろうが。

あえて反発を覚悟して言うが、パレスチナやイスラエルは『武装化』とそのバランスによって、今日まで存在してきた、といっても良い。世界の火薬庫たる所以である。しかし、もし、日本人がこの地の経営を任されたなら、強大な武力を導入し、その力を背景に『武装解除』するに違いない。で、教育を持って、宗教を尊重する反面、宗教性を排除する精神性を養うに違いない。何を言っているのかわからないが、今まで日本人が自ら行ってきたことである。それが、武士道なのか、神道なのか、国民性なのかもわからぬが。

日本人の宗教性は、世界平和のための礎になると思う。その精神性を世界に広めることが重要なのではないか、と思う。じゃ、どうやってこの精神性を世界に広めるか。
日本による世界征服。

無理だ…(笑)。

日本人は『私』の世界で当然宗教は持っており、『仏教』、『神道』、『キリスト教』を場面によって使い分けるけれども、『政治』、『学校』、『職場』、『友達』、『同僚』の中ではその宗教性をむしろ覆い隠そうとする。『政治』、『学校』、『職場』、『友達』、『同僚』の世界では、日本人特有の暗黙の道徳心みたいなものがあって、それが宗教を『排除』するんだな。これは『封建制』のなごりなんだろうか。となると、この宗教でない道徳とはなんだろうか。『日本教』みたいなもの…。これを体系化して紛争地に広めればいいんだろうか…。

2013年8月27日火曜日

国連事務総長の発言

「正しい歴史認識を持ってこそ、他の国々から尊敬と信頼を受けられるのではないか」
まさに、韓国民が世界中から愛されるために必要なことである。

韓国側の歴史教育が正しいのか、韓国の古老に聞いてみて欲しい。 日本は、朝鮮の国会の議決により半島を併合し、集中的に資本投下を行い、貧乏・短命国から資本主義を実現し、そして、経済封鎖、戦争をともに戦ってきた。 独立したとたん、手のひらを返すような態度、いい加減にしろと言いたいときもある。まあ、日本国民は半島で何が起こってもほとんど気にしていないのだが…。

今の政治的な見解の違い、の原因というのは、どうも韓国民、自国にいいことばかりの教育、報道ばかりを押しつけられ、真実を知らされていないことがかなり問題なのである。 竹島だって、国際法に則って宣言したのは、日本側である。それ以前にもしかして領有したかもしれないが、国際法に則っていないので証拠がない。証拠が出た時点で日本は返還する、と言う選択肢も出てくるとは思うのだが、それでは韓国政府がそれまでに倒れてしまう。

 また、日韓基本条約で少なくとも「棚上げ」されている事項であるのに軍隊を送るとはどういうことであるか。これは明らかに条約違反(正確には基本理念に反する行為、だが)である。もっとも、日韓基本条約で取り決められた事項も学校で教えていないので、慰安婦問題で司法があんな判断を下す。とんだ無法国家である。条約に基づけば、韓国政府が自ら解決すべき問題で日本政府は関係ない話である。二国間条約とはそういうものである。 日本の高校の政治経済の資料集には日韓基本条約は当然載っている。日本の歴史教育の方が自由で、政治から中立し、客観的である。しかもちょっと年齢を重ねれば右に転向するし…(笑)。

日本の教育の方が個人に自由な思想を与えるし、考えられるし、社会も許す。反面、韓国っていったいどんな社会、どんな教育なのだろう。 時々、大陸の人とこんなことをしゃべるが、日本人って歴史のこと言わないんで、ものを言わないのか、教育していないのか、わからないけど、あなたは勉強してますね、と言われる。そりゃそうだろう。そっちは正しい歴史を教えてもらってないんだから。日韓条約も知らない、孫文も蒋介石も知らないんじゃ俺との論戦は勝てないよ。日韓条約の中身は韓国がやばくなるから教えない、孫文も蒋介石よりも共産党の毛沢東じゃ、日本では中国の歴史は語れないよ。魯迅先生大好き。
いや、日本人は政治的なポリシーを言いたがらないんで、あえて言わない、もしくは知らない、というのもあるのだが、勉強して本当のことを言ってしまうと、相手を傷つけるから言わない、というのが正しい。本当のことを言ってしまうと、大陸国家の存続にさえも大変な危機をもたらしてしまうので、あえて反日で国を治めさせておけばよい、という考え方もある。反日で日本が得をすることもあるんだな。 

本当の事実はベトナム、インドネシア、タイ、ビルマといった国の方々の方がよく知っている。やはり東南アジアの解放は無駄ではなかったし、あの方々はそれを認めている。旧日本軍も宗主国に対しともに戦った事実もあるしね。少なくとも、韓国の方々は、世界中から感謝される国日本の存在を少しでもいいから知ってもらいたいと思う。それは、歴史的事実である。

大東亜戦争の真の勝利者とはどこの国か。某大国が、こんな国とは二度と戦争をしたくない、代わりに我々が軍隊を置きます、怖いので航空機も作らないでください、とまで言わしめた国が極東にある。まあ、軍隊を置かれた時点で独立国かどうか危ういのだが。半占領国だな。昔の満州?。
まあ、恐い国(=強い兵隊)の遺伝子は当然我々が引き継いでいるんだけれどもね。テクノロジーが戦争を左右する、まさに技術立国としての日本は軍隊としてもすげえんだろうな。
竹島防衛を発動すれば、韓国軍は瞬時に降伏するという話もあるが、人命尊重なので戦争しないだけですよね。平和が一番。ただ、問題から逃げるのもよくない気がするけれども…。

2013年7月31日水曜日

消費増税で財政は改善されるのか?

まったくきつかった。電算担当だから業務サーバーの入れ替えで、先週から激務+休みなしでやっと休みがとれた。
ということで、朝から研究していたことをひとつ。

安倍晋三首相は、景気回復を頓挫させることなく政府の財政を再建していきたい考えで、消費税引き上げをどのように進めるかを検証するパネル(有識者会合)を設置する見通しだ。

パネルは、経済・財政の有識者で構成される見通しで、甘利明経済財政担当相は30日の記者会見で、パネルは「消費増税に向けてどういうリスクがあり、どう いう対処をすべきかを幅広く聞く機会になる」と述べた。ただし現在はまだ、安倍首相からの指示を待っている段階だと述べた。

 失業率の低下や賃金の上昇はGDPの約60%を占める消費の改善を維持するために欠かせない。だが、ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎氏は、消費増税によって起きる需要の減退に企業が対処しようとすれば、一時的に失業率が上昇する可能性があると指摘した。

出典 : ウォール・ストリート・ジャーナル
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323670304578638590089128904.html 

日本人はきっちり計算できる特質にあるので、消費税が3%上がれば、需要が3%下方に動く。需要が少なくなることで供給側(企業側)は供給を3%減らす、ということになる。また、企業は3%縮小再生産となるので、その結果、雇用は3%減少し、その分失業率も増える。全体として経済は3%縮小の方向に動く。
上記の記事中、ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎先生は一時的に失業率が上昇する可能性について言及しているが、市井マクロ経済学者(笑)の私に言わせれば、一時的な減退ではなく、永続的な減退となり、可能性ではなく確実な傾向であると言わざるを得ない。

なお、食料品や出生・死亡における経済については、おそらく消費税の経済減退効果は即発生しない。非常に緩やかに発生する。消費税が3%上がったことにより、人は3%食料品出費を抑え、出生率を3%無意識のうちに抑制し、生きている人のうち(表現がちょっとアレであるが…)経済的困難に遭った人は、自ら命を絶つことにつながるだろう。結果として3%人口を抑制することになっていく。まあ、極論だけれども、私の理論はこんな感じで構築されている。確実に夫婦一人あたり一人しか子供を作らない世の中になっていくだろう。

話はそれるが、今のまま消費増税路線を突っ走っている中で若い人に子供をたくさん作ってもらうには、(老齢社会保障の充実も必要であるが)子供の成育に必要な過分の手当も必要である。児童手当なんてもんじゃない。1年あたり100万円渡さないと、若い人に子供を作ってもらえなくなる。それが、所得の再分配というものである。財務省主導の増税路線は、そんな政府の役割でさえ忘れてしまっているようだ。高度経済成長期は行政が企業を税制により監視し、『富の再分配』を労働者に対し行わせていたが、消費税導入以降直接税がどんどん改変され、富が留保されていることが一つの原因ではあるのだが。これがデフレの真の原因である。

さて、こんなことを考えていたら政府の総債務残高の遷移が気になった。債務で経済維持をすることは実は必要なことだし、インフレ、デフレの調整にも使われるくらいなので、日本国民が国債を引き受けているうちは(一方では国民の貯蓄であるので)危険ではないのだけれど、債務の返済のために消費税が使われる、というような理解がちょっと気になったためである。正直、問題がごちゃ混ぜであり、その理解は正しいとはいえない。

ここに政府が示している総財務残高の遷移を示す。
http://ecodb.net/exec/trans_weo.php?d=GGXWDG&c1=JP&s=&e=

ここで示されているのは、政府の放漫財政ぶりである。消費税導入以降の大蔵省のポリシーのなさが示されている。
消費税は1989年(平成元年)に記念すべき3%が初めて実施されたのであるが、それ以降『総債務残高』は確実に(角度を変えて)増え続けているのではないか。

さらに、1997年(平成9年)4月に実施された消費増税(+2%)の分析である。
出典 : http://ecodb.net/exec/trans_weo.php?d=GGXWDG_NGDP&c1=JP&s=&e=

今度は、 政府総債務残高(対GDP比)である。こちらにおいても、1997年から確実に上に折れるような上昇傾向を示したが、2%の増であるので微増といったところか。

結局、消費税は経済に悪影響をもたらし、幸福な国民生活に一定の抑制を与えることは明白であるけれども、政府の負債という局面にも悪影響があるということが立証されている。税額を上げておきながら、惨憺たる話であるが、消費税もだめ、経済もだめ、であれば税の取れる途は閉ざされてしまっているようにも見えるが。

さて、各国がなぜ消費税の導入に踏み切ったか、当時の状況を考えると、案外、意外な理由が見えてくる。消費税は売り上げかなんかか知らないけれどもただ何%かかければ出てくるのであるが、所得税はそういかない。控除があったりするから、制度的に難しいし、サラリーマンを20年以上やっている私でも配偶者控除がいったい何なのかさえわからない。言われたままやっている。
消費税導入時は算盤による計算が主流で、がんばっても計算機によるもので係数を増減したりすると、すべて再計算の世界であった。係数が固定されている消費税の方が『楽』であった。

正直、今はそういう時代ではない。Excelがあるから制度を知らなくても金額を突っ込み、どこに該当するかチェックをするだけで計算はできてしまう。こういう時代に経済全体に悪影響をもたらす消費増税はどうなの、と考えてみたが、まあこれは学説としては偏りすぎ…。ただ、もし消費税がなく、基本的な税制が所得税、法人税、酒税のままであったなら、もしかして、失われた20年はなかったかもしれない。諸外国にはブーブーと文句を言われたに違いないが。

最後に、なぜ消費税が政府公債残高に悪影響を与えたか、ということを論じてみよう。この程度はやはり高校の政治経済レベルで解き明かすことができる。
 以前、消費税は『景気の自動安定装置』を動作不良にする、と述べたことがある。景気が良くなれば、所得が上昇し、累進課税によりその分政府が税収として吸い上げ、景気を結果的に抑制する。吸い上げた金は、公共事業、社会保障などで分配し、日本国中の経済を支える。
景気が悪くなれば、累進課税により、税額を下げ、国債を発行することにより貨幣の流通量を上げるよう政府が努力する。ちなみに今の安部さんがやっているのはまさにこれである。インフレにすれば経済は投資に向かうのは明白であるが、消費税を上げれば、経済は減退するし、またデフレとなり投資が無駄になる。と言うことは『失政』につながっちゃうかな???。

今は、消費に税がかかってしまうので、比較的安定した税収は見込めるが、景気といった点には無力である。失われた20年と言われるが、この間の経済政策といったら何をやってもだめであった。それは、たとえば、公共事業をやっても消費税の効果によりその効果が減退してしまう。財政投融資も制度自体破壊されたし。所得税、法人税の累進制も破壊されている傾向にあり、あるところにはあるけれども、税として吸い上げられない状況である。消費税にシフトした結果である。
さらに今般の消費税増税である。すでに、勤労中堅層の家計は5%の消費増税以降破壊されているけれども、まさに国民生活全体の家計の破壊を企てているといっても過言ではない。
結局、景気全体を減退し、税収見込み通りに取れないのが消費税であり、頼ること自体が危険と言わざるを得ない。その結果、債券を発行し公共投資をし、社会保障を手厚くしても消費税にその効果が減殺され政府による投資効果が税に直接吸い上げられ、波及効果は著しく低い。いつまでたっても景気が浮揚しないし、債務が増え続けることになる。
もはや、日本においては消費税の壮大なる実験は失敗したのである。これに反して、経済を減退させず、税収を確保する方法は現在一つしかないが、それを主張しているので本ブログは『逆流』なんだよな。徹底して税制を再編しなければならない。いや、シャウプ税制回帰でも良いくらいである。そして、公経済が私経済に感度良く即反映する税制を構築しなければならない。わかんないだろうな…。