2013年9月16日月曜日

台風20号(昭和54年)

本日の台風で思い出した。
私が小学校6年生ときの10月19日にものすごい台風が日本列島を駆け抜けていった。その台風の威力はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/昭和54年台風第20号 に詳しく載っているが、中心気圧の低さとしては歴代でトップ、気象衛星ひまわりの写真をみても、日本全体を覆ってしまっているようなでかい台風であった。

前日から、当然警戒モードであった。担任の教師は自らが伝え聞いた経験、小学生の女の子が傘ごと風に吹き飛ばされて川に流された話をし『川には近づくな』と言っていた。
朝6時、室戸岬に上陸、まだ私の住んでいた地域はどんよりとした曇り空で、しかも、10月下旬にもさしかかろうとするのに、生暖かく、湿った大気であったことを覚えている。
授業途中から、外は暴風雨となり、職員会議が開かれ『全校帰宅』の措置がとられた。町内会ごと通学路別に班を構成し、最上級生としての私はその班では一番家は遠かった。しかも、普段使っている通学路とは違う通学路を集団下校の際は強いられる。

当時の私はその地域を見ても由緒ある小学校だったらしい。全校確か1,800人ほどであったが、7割ほどは木造校舎で構成されており、また木造のうち半分は昔の県庁舎を移設したとされる建物であった。そんな中、児童の安全を確保できない、と判断したことも容易に想像できる。

さて、集団下校の際、今まで経験したことのない風雨が我々を襲うことになる。雨が川になった路面を波のようにたたきつけるような、という感じだった。傘などなんの役にもたたない。子どもたちを先導する大役を仰せつけられた私は、早々に傘を差すことを放棄した。
子どもたちは、かたち上まだ傘を差している。歩いているほかの子どもたちは順々に帰宅していく中で、私を含め、3人の子どもの行軍となった。ほかの二人は、姉妹で上は小学校四年くらい、下はまだかなり小さい小学校一年生、美人であったお母さん譲りで(私もお母さんには親切にしていただいた)、今はお二人とも大変な美人になっているだろう…。

そして、最大の難関にさしかかる。
私の住んでいた地域は、富士山南麓の緩やかな傾斜地にある。といっても、昔からそれなりに開けていた地域ではあるが、小川も流速を増し、傾斜を削り、20-30メートルの谷を構成しているような地形もあり、その上を四車線の国道が一段高くなって横断していた。国道に出たとたん、突風が我々を襲うことになった。しばし、動きを止めたが、小学校一年生の妹さんのほうが騒ぎ出した。先を行っていた私は急いで彼女たちのところに駆けつけた。
『傘が壊れちゃった…』
半ば、泣きべそである。
その傘を取り上げちょっと見てあげたが、直すのをすぐにあきらめた。というのも、直すのが難しかったからではない。その姉妹の家まではあと400mほどであったが、50m程手前に橋が架かっており、眼下には斜面を駆け下る流速により深くえぐられた谷がある。そんなところを小さいこの子が傘を差していって、吹き飛ばされたらひとたまりもない…。川に吹き飛ばされた担任教師の話が脳裏をよぎる。
「もう傘を差す必要もないよ。俺も濡れてるだろ。このまま傘を差していっても危ない。このまま行こう。」
と説得し、そして、その橋に差し掛かった。なんせ、史上最大であり最低気圧の台風で、最大風速は70mである。俺は、彼女の体かランドセルか、つかんで力を入れすぐには飛ばされないようにした。まあ、小学校六年生にしては私も小さい方で頼りないんだけど、それなりに役に立つだろう、と思い、それなりに緊張した数十秒であった。眼下では、今までに見たことのないような濁流がすごい勢いで流下している。

何も起こらなかった。相変わらず強風ではあったが、吹き飛ばされなかった。
本当に安堵したのは、彼女らを送り届けたあとである。まだ、台風の威力もすごかった時間帯であるが、その後は家と斜面と道路しかないところで、側溝にわざと入ったりしなければ流されたりしない。平然と濡れながら一人で歩いて帰った。そもそも私は比較的安全な通学路を使っており、彼女たちの家から20mも歩けばその通学路に出られたし。

翌朝、学校に行ったところ、鉄筋コンクリート製の校舎の窓ガラス(金網入り)が吹っ飛んでいる。担任に聞いたところ、台風の風で割れてしまったとのことであった。まあ、クラスの悪ガキがピンポン球をぶつけてしまい、ヒビを入れてしまっており、それが強風により割れてしまっただけのことであるが台風により割れたことには違いなかった。

中学に入って、隣の小学校から来たやつに聞いたんだが、その小学校(元々は私の小学校から分離した学区で構成される新設校)は、台風のとき、授業をしてたそうである。私のところは強制下校で、しかも恐い思いをして…、まあ、しょうがないかもしれないけど、今の私がもし校長だったら全員学校待機くらいのことはしたかもしれない。まあ、私のクラスは弱っていた窓ガラスは割れたけれども、ほかに被害はなかったので。ただ、避難(当時、講堂を解体してしまい体育館建設中)先がなかったかもしれないので、緊急点検の上、一部避難の措置をとるのが望ましかったと思う。むやみに避難や下校の措置はかえって危険にさらすことになる。風雨が強まる前の下校措置ならわかるが、危難の最中の下校措置はかえって危ない。安全な教室に避難させるのが正しい措置ではないか、と今では思う。我が市の教委の判断はいい加減であった。隣の木造校舎を使用していた中学校では、下校の措置はとられなかったし。

というのも、私の地域の被害は幸い人的被害は少なかったが、深刻であった…。
地域全体では、水の猛威により、川岸が大幅にえぐられてしまったようで、隣の川では30mくらいの吊り橋があったのだがそれは流されたし、下流にあたる駅のちょうど真下の川岸護岸用玉石コンクリート(今の知識で言えば擁壁であるが)などは20-30mに渡り、川岸から剥離し、しかも川の中で半回転して、裏側になってひっくり返っていた。そんな被害があちこちに残っていた。川の猛威を感じた瞬間であった。
ほかの通学路では、やはり国道下の河床を利用した地下道があり、そんなところでは上級生が適宜判断しただろう。そんなところを利用したら場合によっては流されることになるだろうと。先生たちは通学路がどういう状態になるのか、余りよくわかってなかったのではないか。まあ、今でもそうだろうけど、常識的な判断をしたとはとうてい思えないのである。
田子の浦では、貨物船『ゲラティック号』が砂浜に打ち上げられ、一種の観光地になっていた。まあ、この船は助けを呼ぼうとした船長が波に揉まれてしまい結局二人の死者も出しているのだが、砂浜にきっちりはまってしまったその巨大な姿に驚嘆した覚えがある。今は、田子の浦海岸、丸石むき出しの海岸線で砂浜も少なくなってしまったけれども、昔はまだ砂浜があり、波打ち際までの距離も今の1.5-2倍くらいはあったと思う。
親父の職場では、小さな事務所が強風で50mほど別の位置に移動してしまった、ということも聞いた。
下校中の小学生がこんな被害に巻き込まれなくて良かったと思う。

当然、地域全体は激甚災害の指定を受け、川は基本的に3面コンクリートで塗り固められてしまったので、直後は魚も絶滅してしまったようだ。しかし、あれから何十年もたっており、川岸は無理だが、川底は堆積する土砂により比較的自然を回復してきており、少しは魚が戻ってきているのではないか、と思う。

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