2013年9月1日日曜日

大日本帝国憲法は生きている??? (大日本帝国憲法の有効性議論)

大日本帝国憲法は生きている???

法学徒であった頃、当然憲法とか履修はしたんだけれども、暇なときにふと『大日本帝国憲法』を読んでいてちょっとびっくりしたことがあった。
中学、高校時代と、『公民』や『政治経済』で、大日本帝国憲法は近代憲法として劣っていたから改正した、と教わる。たとえば、天皇主権から国民主権(象徴天皇制)に変化したこと、生存権を明記したこと、天皇による恩恵的人権から不可侵な基本的人権への変化、国会の協賛機関から国権の最高機関への変化、内閣の行政権の輔弼機関から最高機関へと変化した、ことなどが改正の内容として挙げられる。
そういった細かいことを気にせずに読めば、大日本帝国憲法は立派な憲法である。そして日本国を動かしていたのである。決して劣ることはない憲法である。

稚拙な法学徒の頭で当時考えてみたが、どうも大日本帝国憲法は『廃止』もしくは『停止』の措置がとられていない。法学的に言えば、大日本帝国憲法の『全文改正』の手続きによって、『日本国憲法』が定められたのだが、普通、改正って『第何条の某という語句を甲に改める』と言うのが普通である。『全文』を『改正』する手続きが大日本帝国憲法上有効かどうか、疑わしいんじゃないか…と思った記憶がある。法律改正であれば、少なくとも『第何条は下記の条文に置き換える』くらいやっておかないといけないといけないのでは…、と率直に思ったのであった。学会の議論で言えば、憲法改正限界説(そもそも大日本帝国憲法の改正する範囲を超えてしまっている、と考えている)や真正護憲論(新無効論)(制定の経緯が国内法、国際法、条約等に反し、原始的無効と考えている)と言うらしい。

おそらく、米国押しつけの憲法をそのまま国会に提出することになったが、本当はこのまま行かせたくない。でも、日本は占領下であるから前文や条文に爆弾を仕掛けておいたのだろう。そして、後世の議論に任せたつもりだったのではないか。

さて、あれから憲法学を履修してから私自身25年もたっているのだが、いまさらではあるが、『日本帝国憲法の無効性』をネット検索してみたら、やはりそのような論議があるようだ。ただし、私が思った手続き上の瑕疵ではなく、
  当時軍事占領下だったんだから、サンフランシスコ平和条約による主権回復により、占領下の憲法(占領憲法)は当然停止されるべきだ。これ(主権回復)により、大日本帝国憲法は自動的に復活している。
  大日本帝国憲法は『朕』が『公布』しており、その改正手続きに則り日本国憲法は『朕』が『公布』したが、前文はいきなり、『国民は』になっており齟齬を来している。
というのがあるらしい。そのほか、難しい言葉でおかしいって言っている学説も…。

まあ、現代社会でまともな議論にはならないだろうけども、法学の『ロマン』として私も、大日本帝国憲法の有効性を論じてみた。
確かに、国民主権の憲法を先に考えておいて、後から『天皇制』を付け加えた結果、現行憲法の骨子ができあがったのだろう。現代語の表現で言えば、とってつけたような…である。そもそも天皇制は日本国家の骨であるのに、前文に一言もないのはやはりおかしいのではないか。
挙げ句の果て、
第一条[1] 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
なんて言っちゃってる。そもそも日本国民は分断なんかされておらず、いまさら統合なんて言われても、というところである。また、国民の総意があれば、『天皇制』を廃止してもいい、と裏で言っちゃってる。日本人の統合を理解しなさ過ぎである。
いかにも、移民の国かつ連邦国家である米国が安易に考え出しそうな条文である。たとえば、『大統領は、合衆国の象徴であり合衆国国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する合衆国国民の総意に基く。』に書き換えるとしっくり来ちゃうんだな。
さらに、上諭で天皇が公布したのに、前文で天皇は無視され国民主権だと言い、さらに1条で『朕』は『国民の総意』と無理矢理定める、日本語的には破滅的な理論で語られている。
わかりやすく言えば、裁判所で『主権存在確認の訴え』を天皇と国民が争ったら、天皇が負けた。裁判官をみたら天皇だった…、みたいな違和感を感じるのである。

しかし、それでも日本側の担当者は痛切なスパイスを前文に組み込んだようだ。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。』
まさに、戦前のABCD包囲網により戦争に引きずり出されたことを言っているんだな、と思った。もう二度とアメリカさんあんなことしないでね、と言っているんだな。普通、憲法では自国のことを言うもんだが、ここの部分は『各国の責務』とまで言っちゃってる。世界平和は政治道徳がなければいけませんよ、って言ってる。中国も朝鮮もこの辺は勉強すべきだろう。

そして前文最後に
『日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。』
言い換えると、敗戦国の『日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。』けれども、連合国さんはどうなの?。俺らを戦争に引きずり出しておいて勝手なこと言うなよ…。
と言ってる…。
なかなかやるな。日本国憲法()

2 件のコメント:

  1. 参考に成りました!

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  2. ありがとうございます。終戦記念日前後と憲法記念日前後になると、恥ずかしながらこの記事がよく読まれているようです。
    ここでご紹介した憲法の前文ですが、読む人によっては日本民族をまさに冒涜している、と感じるんだとか。あえてここに書く必要はない、我々はずっとそうしていた、ということなんでしょうか。ソースは確認しておりませんが。
    しかし、私が読んだら、まさに連合国をバカにした皮肉のエッセンスを効かせたジョーク(ちょっと言い過ぎなんですけれども)として理解できるわけですね。

    現在、集団自衛権の議論が世の中真っ盛りですが、憲法学者はほとんど第9条に違反している、と言います。言葉の問題ですから、どう読んでもどう考えても集団自衛権の行使の余地はない、と考えるのが自然でしょう。だって、連合国様は日本という国を消滅させようとした、だからこそ自衛権も持たせず、侵略される道を歩ませようとしたんではないでしょうか。
    そこで、武力を一切持たない、と読み取れる日本国憲法を押し付けたんでしょうね。9条を制定すること自体、独立国家としては自殺行為ではないでしょうか。正当防衛でさえも明記されていないのです。
    ところが、国際情勢が変わり再び動乱の時代が訪れたら、連合国様の扱いが変わって来ます。「日本って案外いいやつだよな。国民は自ら秩序を持っていて、しつけが行き届いて道徳性も高い。技術力は高く、科学技術の吸収力も高い。それに勇敢でまさに世界最高のヤツラさ。」と考えたに違いありません。そこで、防共の砦として活用することを考え始めたのです。
    ということで連合国様と政府は軍備を持つことを模索し始める。その一つが9条の穴「国際紛争を解決する手段としては」交戦権を放棄しているよ、と読むことだったのです。これならば、少なくとも自国を攻撃されたらもはや国際紛争ではなく自衛戦争なので「自衛隊」と名付けられたんですね。
    みんな9条自体に注目しすぎて、集団的自衛権は違憲だっ!と騒ぎ立てますし、もともと自衛行為のみに解釈されている文章にそんな機能を持たせることは所詮無理でしょう。ただし、ひとつ弁護できるとすると、ここに掲載した憲法の前文は集団的自衛権を予定している、と見て取ることもできますね。「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」
    私的には、連合国を痛切に皮肉ったつもりが、逆にヤツらを守る結果になるとは…。
    結論としては、前文は少なくとも集団的自衛権を予定していたのではないか、ということをここに書かせていただきました。

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