2013年8月29日木曜日

日本人の宗教性

本日、職務命令で(笑)休みをいただいた。まあ、嫁と仲良くするわけでもなく、10時に近所の温浴施設に行き、昼飯食って、昼寝して、本を一冊読んで帰ってきただけの一日であった。

読みたい本も特にない中で、「パレスチナから来た少女」という、ハードボイルドな小説を読んでいた。舞台はパレスチナ、イスラエルとの対立の中で難民が虐殺されたことがあった。一家惨殺の中で、実は幼女だけが生き残り、ある日本人ジャーナリストに保護され、その後日本人となってしまう少女の話であった。それとは別に、ある生き残った少女はテロリスト(コマンド)としてユダヤ人を多数暗殺するが、その二人が日本でなんと…。
というストーリー。

物語自体はサスペンス的で動きがあり、また、史実に脚色されたストーリーであるので一気に読んでしまった。文体もなかなかきれいで読みやすかった。本当は、この本の読書感想文でも書くべきであるのだが、私は別のところが気になった。それは…。
日本人の宗教性
である。

日本の経済は、班田収受の法と墾田永年私財の法が基本であると前に述べた。ところが本当は国有制だったものが(制度の疲弊と官の怠慢などで)事実上農民の私有となってしまう中で、また開墾されたものは私有となることを保証されれば、勤労意欲が高まるに違いなかった。それとともに荘園制が成立していく。荘園の親玉は領主であるに違いなかったし、平将門以降、荘園が別の荘園を配下とする中で、また別の勢力と戦っていく、という構図が成り立っていく。また、戦国時代などは荘園の国盗り合戦のようにも映る。
ところが荘園は、武士や農民だけではなかった。寺社も寺社領として荘園を所有していた。比叡山の僧兵とか、一向一揆などは結局のところ、宗教側の荘園が別の荘園と戦った構図である。正直今の日本の宗教とは全く違うのである。宗教は『武力を持たない』のは日本ぐらいなものであって(例外的に近年革命を標榜する某宗教団体も存在したが)、世界は未だ『宗教は武力を持っている』し、過去の日本においてもそうだったのである。
なぜ、宗教団体が武力を持たなくなったのか。これは、井沢元彦氏によれば、信長に代表される宗教側への攻撃と、秀吉に代表される『検地・刀狩』の存在が大きいようである。戦後の領地没収、武装解除は日本に平和をもたらすきっかけとなったのだ。
さらにもう一つ挙げるとすれば、日本人の宗教性がある。そもそも万物に神が宿り、人間は神として奉られ、さらに人間は『仏』である、となんでも神様となってしまう宗教性は、いろんな宗教をもその精神性の中に取り込む性質があったのである。地域の日本人特有のアニミズム、いわゆる神道の『寛容さ』がそれぞれの宗教に存在意義を与えた、と言おうか。
この精神性と武装解除の考え方が、たとえば朝鮮半島や台湾の統治にも影響を与えたのではなかろうか。急速な近代化と経済発展は日本的な考え方が土壌になったに違いないだろう。当然反論もあるだろうが。

あえて反発を覚悟して言うが、パレスチナやイスラエルは『武装化』とそのバランスによって、今日まで存在してきた、といっても良い。世界の火薬庫たる所以である。しかし、もし、日本人がこの地の経営を任されたなら、強大な武力を導入し、その力を背景に『武装解除』するに違いない。で、教育を持って、宗教を尊重する反面、宗教性を排除する精神性を養うに違いない。何を言っているのかわからないが、今まで日本人が自ら行ってきたことである。それが、武士道なのか、神道なのか、国民性なのかもわからぬが。

日本人の宗教性は、世界平和のための礎になると思う。その精神性を世界に広めることが重要なのではないか、と思う。じゃ、どうやってこの精神性を世界に広めるか。
日本による世界征服。

無理だ…(笑)。

日本人は『私』の世界で当然宗教は持っており、『仏教』、『神道』、『キリスト教』を場面によって使い分けるけれども、『政治』、『学校』、『職場』、『友達』、『同僚』の中ではその宗教性をむしろ覆い隠そうとする。『政治』、『学校』、『職場』、『友達』、『同僚』の世界では、日本人特有の暗黙の道徳心みたいなものがあって、それが宗教を『排除』するんだな。これは『封建制』のなごりなんだろうか。となると、この宗教でない道徳とはなんだろうか。『日本教』みたいなもの…。これを体系化して紛争地に広めればいいんだろうか…。

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