2013年7月24日水曜日

民主党再生へのみち

アベノミクスはそのうち行き詰まる、と言っている民主党だが、その代わりのマクロ経済的な妙案は出てきそうにない。そもそも日本国経済、この頃外資が多くなっているようにも見受けられるが、日本全体の経済のうち8割は内需、と言われている。消費税を下げ、法人税を上げても、実際外資が日本国内に進出できなくなるだけで、日本国内でごちゃごちゃやっているうちは会社経営が多少(消費税を上げない、もしくは下げる分法人税に付加する)苦しくなるかもしれないがほとんど気にすることのないくらいの気分で経済は拡大すると思われるがいかがなものか。
次にとるべき政策は上記のような『新・鎖国論』である。

さて、混迷を深めている民主党だが、本日、海江田さんは菅さんに『出て行け』といい、党内は『その必要はない。処分が重すぎる』といったことのようなできごとがあったらしい。そもそも、菅さん野田さんが総理をやっていなかったら、こんなにも民主党はだめにならなかっただろう。この責任は非常に重い。
では、次にとるべき方策はなにか。それは、政策ではない。国民は飽き飽きしている。意味わからないし。では何か。それは人である。まず、人をあっと言わせる人事を断行してほしい。
これなら、半分くらい民主党を許せるってな人事を書いておく。
・代表 小沢一郎
・幹事長 馬淵澄夫

海江田さんは小沢さんに頭を下げに行くべきだね。民主党は小沢さんの言うことを聞かないで、大幅に議席を減らした、いや倒産した状態といってもよいが、もう一度力を貸してくれって言えばいいんじゃないかな。
むしろ、代表選を菅さんと争ったことがあるが、このときに小沢さんを選んでおけばここまで混迷することはなかったし、自民党も未だ危機感を抱いていただろうし。まあ、民主党シンパではないんであまり書かないが、一言言わせてもらうと、まさに無知すぎる『身から出たサビ』と言わざるを得ない。高校生でも理解できるマクロ経済学を連中は理解していなかった。誰もまともに反論していなかった。まあ、まともに反対してたのは小沢さんちだったけど、追い出されちゃったからね。

さて、一方の自民党であるが安倍さん相当悩んでいる。消費増税はおそらく実施で腹は固まっているが、3%はあまりにもGDPに悪影響を及ぼすことは明確である。財務省は、算定通りに税収を確保することも困難じゃないか…。これは日本国民の特質である。3%上げれば、3%失業し、自殺者が増加する。じゃあ、どうすればいいか。ブレーン浜田先生曰く、『1%で様子を見る』。
これは、比較的賛成であるが、子育て世代の私にとっては、やっぱり消費増税は反対である。食えなくなるのは目に見えている…。法案に持って行くのにまた苦労するだろうし。

民主も維新も反対しろよ。野党らしく。どこに投票していいんだかわからねえじゃないか。あえて言えば幸福は俺と政見政策は一致するが…。宗教上の理由ってなものもあるしな…。

8割の内需は、日本の行くべき道を決定づけている。日本経済は外国の言うことをさして聞かなくても良い、ということである。なぜそれに気づかないのか。消費税を上げれば外資がどんどん入ってくる。財界は『法人税を下げなければ(消費税を上げないと)国際競争力が低下する』なんてことを言うが、それをそのまま実施すると、『良質な内需、良質な市場、良質な製品』が日本から消滅することにもつながるだろう。日本の内需は『米』と同じである。外国に食われないために、何をするべきか慶応経済の小沢さんに是非聞いてみたいものだ。

2013年7月14日日曜日

民主党はなぜ不人気なのか -消費税増税を実施すべきか?-

参院選を控え、各党追い込みにがんばっているようだが、際だって不人気なのが民主党である。
なぜこうなってしまったのか、生き残った議員さんたちはいろいろ分析しているようだが無駄な分析と言わざるを得ない。
なぜならずばり、『生活が第一』と言っておきながら、反面、『たばこ大増税』を実施し、と『消費大増税』を企てたから。理由は明白である。馬鹿な厚生労働大臣(こちらは解党的危機には至らなかったが…)と馬鹿な総理大臣を輩出したことによって「生活党」であった民主党は死んだといっても過言ではない。

さて、小論では『消費増税は亡国』くらいの持論を持って書いているが、たとえば、20年前のサラリーマンは息子一人くらいは借金もせずに大学にやり、下宿させ、仕送りも送る、くらいのことはできていた。一般的なサラリーマンは世界最高水準の貯蓄もあったことを考えると、現在よりも実質的に100~200万円ほど所得は高かったと考えることができる。だが、平成8年の消費増税5パーセントに加え、それ以上の所得自体の減少、緩やかな物価上昇により家計は痛めつけられ、さらに今回の消費増税など狂気の沙汰、と言わざるを得ない。自民党の先生方もそのことには気づいておられる方も一部いるようだが、もう一度再考してもらいたい。消費税がいかに働く世代の所得を破壊しているか、これが良い次世代の発展につながるか。
増税を企てた財務官僚はそのあたりの分析はやっているのだろうか。なぜ増税に固執したのか不思議でしょうがない。

現在とるべき政策は、貨幣の流通量の増加であり、同時に平成元年の消費税導入以降、着々と留保された一部の資金を『新税制』ですくい上げることである。日本の労働者はそもそもこんなに貧しくはなかったはずである。アベノミクスはバランスの良い税制を実施できるかどうか。判断の時は迫っている。

2013年6月1日土曜日

爆速!!!IIJmio

どうしちゃったのかわからない…。昨日400MBくらい使っちゃって、速度制限かかるかな…と薄々予想していたが、結果はこの通り。

2013年5月12日日曜日

NetWalkerにFlashとMOZCを組み込んでみた

Firefoxをアップデートというより並行して最新版を組み込んで、そうしたら最新版のFlashPlayerが組み込めた。YouTubeはスライドショー的になってしまうが音なら十分。Radikoが聞ければOK。
で、その後、念願のMOZCをいれてみた。

NetWalkerは長時間入力する機械ではない。キートップのバランスが悪いため斜めにキーを押しこむことが多い。斜めだけならいいのだが、入力できる時とできない時があり、打ち損じを防止するためにかなりゆっくりと確実に入力しなければならないからだ。
なぜこんなキーボードを採用しちゃったんだろう。まだIS01のキーボードの方がまともである。

まあ、インストール方法は先人様の知恵を拝借させていただいた。
ここはご報告まで。






2013年5月6日月曜日

NetWalker (PC-Z1)を買ってみた…

 FMV-P8215Tも買ってから実に1年半も経ってしまったので、この辺で型落ちのマシンでも入手しようかな~っとネットを漁っていたら、記憶の彼方にあったSHARPのNetWalker(PC-Z1)が12,800円程度で売られているのを発見。嫁との交渉に約1週間ほどを費やし、結局Amazonのショップで12,400円だった。

さて、この機種であるがだめなところから紹介。
 もうかなり前の機種であるのでインストールとかサポートとかうまくいかない。SHARPの説明ではFlash Liteは工場出荷時には入っていないけれどもユーザー登録すれば入れられるよって書いてあるけれどもどこのページにあるのか…。多分シャープさん忘れてますよね。ページ移行の際忘れたか切り捨てたか…。つぶれそうなのもわかるがもうちょっとユーザーにやさしくしてよ(笑)。
 キーボードも前評判どおりかなりペタペタとした感触で打ちにくいかも。is01では案外打ちやすかったのでキーボードの構造がかなり変わったんだな、と思うけれども、打つときにキートップのバランスが悪いというか…。
 動きも全体的にもっさりしているかな。俺はそんなにパワーを求める処理はしないけどね。
 日本語入力はSCIMである。SCIMでなくMOZCを搭載してもらいたかったがまあ時期的にしょうがないかな。ただ、シャープさんここでも選択をミスってる。私はローマ字入力もするが基本的にかな入力である。キートップにはかなが印字されておらず、SCIMをかな入力に切り替えて無理やりかな入力をやってみたが、なんと『へ』の入力できるキーがなかった。かな入力を排したW-ZERO3の栄光も解るがかな入力にこだわる俺としては相変わらず悲しい…。また各種括弧も入力しにくい。
 Ubuntuもわかるが、Vineとかdebianがうれしかったかも。あまり人に自慢できない気が…(笑)。
 マウスはキーボード右上のOptical Pointとなっている。クリックボタンは左上になっている。これは使いにくい。マウス操作は片手でやりたいもんだ。
 NECのLife Touchnote はこの辺よくできていたが液晶がかなりくそだった。NetWalkerの液晶はかなりナイスである。ワンセグも載せてもらいたかったな。ただ俺はそろそろ老眼かな。

次にいいところ。
 やはり電車内での使用が想定されるので、実は動画等はあまり見ない。物書き、ブログ、メール打ちが主な用途であるので、私のようなおじさんには工場出荷時の状態で十分かもしれない。F-12CともUSBテザリングはOKであった。Flash関係例えば産経Netviewが使用できないのは悲しいが、できないところはスマホでカバーできるから。
 印刷等についてはメーカーのアナウンスによるとできないらしい。ARMだからかな。印刷できれば最強マシンなのに。 キーボード入力できるLinuxと思って割り切って使えば幸せになれるかも。

2013年5月3日金曜日

御殿場市神山(40年前の記憶)

以前このブログに書いたとおり、1967年(昭和42年)-1974年3月(昭和49年)まで御殿場市神山にある静岡県の官舎に住んでいた。あれからいつのまにか40年も経過しているが、懐かしさもあってそのころの神山を文章として記録しておきたくなった。

・当時の神山幼稚園は神山集落のはずれ、現在の高内区の管理する広場にあった。
・神山小学校は現在の神山幼稚園の場所にあった。敷地は幼稚園の2倍ほどあったか。神山幼稚園の園児は神山小学校に上がる年に小学校の給食を一回だけ小学校に出向き食べられたのだが、私は神山小学校には進学しなかった。当時の神山小学校の給食は『うまい』と評判だった。校門前の左側大木(楠か?)は今も健在。
・幼稚園の遠足は何回かあって、年に一回は『酪農(育成)試験場』だった。また、印象に残っている遠足としては、箱根方面に行く路が新設されたので、そこをたどっていったことがあるが先生も目的地を知らず一面のレンゲ畑で昼食をとって帰園したことがある。
・アスファルトの舗装道路は滅多になく、昭和48年に試験場から尾尻に抜ける道路がやっと舗装された。ただ、神山小学校から神山幼稚園までは舗装されていたかも。それ以外は、砂利舗装。定期的にトラックで採石を撒く風景が見られた。
・神山幼稚園では七夕行事の際、短冊をくくりつけた笹(あれは竹だろうな…)を裏の川に流した。といっても水量が少ないので、一気に流れず増水時まではそのへんにとどまっていたような…。
・神山幼稚園には長寿の亀がおり、秋になると枯れ葉や土をバケツに入れ冬眠の準備をしてあげた。バケツの中に埋めたような気もするが、次の年もいたような気がするので、冬眠に成功したのだろう。
・神山幼稚園のブランコ(年少用)で飛び降りるのは得意だった。園舎の玄関前まで飛ぶことができたが、年長用のブランコではタイミングが合わずあまり飛べなくなった。危険な遊びをしていても先生は制止しなかった。
・予備校寮で隣室だったM君は偶然にも神山幼稚園時代の同級生。また、以前仕事でつきあいのあったSEは神山幼稚園の後輩にあたる人がいる(どうでもいいが)。
・当時の国道から神山集落まで至る路は田んぼの中の一本道であった。集落に入る前に橋が架かっているが、これは現在とは線形が異なる。また、橋のたもとに昭和48年末、文房具も販売する店ができたのだが、ここで買ったプラチナのシャープペン(500円)は長らく使用した。万年筆好きのきっかけとなる。あの店はどこに行ったのだろう。
・このへんに、交番とか郵便局とかあったような。記憶は曖昧である。
・神山小学校(現神山幼稚園)西側の道路に八百屋兼駄菓子屋があった。しかも小さな店なのに歯磨き粉まで入手できた覚えがある。仮面ライダーのカップアイスは10円だった。幼稚園ではこの店で『買い物実習』を行った。セロテープで10円玉を3枚数珠繋ぎにしたものを園児に持たせ、みかんとかバナナとか買ったような。バナナうまかったな…。
・神山小学校を東に行くと、川を渡る道とまっすぐな道二本に分かれるところがある。左に下る川を渡る道を行くと藁葺屋根の家があり、ここは同級生の家であった。
・まっすぐ行くと左手に『山之神社』『防火水槽』がある。『山之神社』からは水がわき出しているが、私がいた頃は湧き出していなかった気がする。この道には蛍がいた。防火水槽は夏期、神山小学校のプールとして使用した。夏休みは一般開放され私も浮き輪持参で水遊びをしたが、浮き輪からはずれおぼれかけた記憶もある。その後、泳ぎは得意になった。
・ここからまっすぐ行くと赤土の露出している崖があり、水がしみ出していた。そこをほじくると沢ガニのちっちゃいやつがいっぱい出てきた。左に行けば橋が木造の橋が架かっていたが、昭和47年くらいかな、鉄筋コンクリート製の橋に掛け替えられた。また、川も護岸工事がなされたが、よくオタマジャクシを取りに行った覚えがある。川で遊ぶな、と親に言われたがこれは上流に位置する東駿河療養所と当時の『誤解』に基づくもの。子供には関係ない。
・私の家はこのまま行ったところにあった。幼稚園児の足ではかなり幼稚園までかなり遠かった。家の向かいに畑もついていたくらい広大だったが、畑でよく遊んだな。また、ここにも防火水槽があったが、狭くて深いものでそのときは使用されておらず格好の遊び場所であった。
・ここから試験場へは遠回りとなるので、山沿いの道を行くことになる。へびとかとかげとかいっぱいいたような気もするが、田舎の幼稚園児は慣れていた。道や家が消滅してしまっているところもあるが、農地の石垣や柵など印象に残っている構造物で10年前に行ったときに残っていたときは感動した。
・黄瀬川にかかる『高橋』。当時は橋の周囲はうっそうとした木々に覆われており、川幅は狭く急流であったが、魚の影が見られた。幼稚園児はこの橋を渡るのが怖く、橋から落ちる夢を見てはうなされていた。そこに薬局ができたりした覚えがある。
・床屋。やはりうまいと評判だった。
・かかりつけの歯医者が三島にあった関係で母親に手を引かれ国道まで出てよくバス(富士急行)に乗った。70年くらいまでは若い女性の車掌が乗車しており、まだ小さかった私はよく可愛がられた。しかし、ワンマン化が72年頃急速に進み、それでもバス停を告げる女性のアナウンスは相変わらずだったので、若いお姉さん方はバスの天井にでも閉じ込められてしまったのかと、マジで心配した。

 当ブログでは当時の仲間を募集中である(笑)。