2013年5月3日金曜日

御殿場市神山(40年前の記憶)

以前このブログに書いたとおり、1967年(昭和42年)-1974年3月(昭和49年)まで御殿場市神山にある静岡県の官舎に住んでいた。あれからいつのまにか40年も経過しているが、懐かしさもあってそのころの神山を文章として記録しておきたくなった。

・当時の神山幼稚園は神山集落のはずれ、現在の高内区の管理する広場にあった。
・神山小学校は現在の神山幼稚園の場所にあった。敷地は幼稚園の2倍ほどあったか。神山幼稚園の園児は神山小学校に上がる年に小学校の給食を一回だけ小学校に出向き食べられたのだが、私は神山小学校には進学しなかった。当時の神山小学校の給食は『うまい』と評判だった。校門前の左側大木(楠か?)は今も健在。
・幼稚園の遠足は何回かあって、年に一回は『酪農(育成)試験場』だった。また、印象に残っている遠足としては、箱根方面に行く路が新設されたので、そこをたどっていったことがあるが先生も目的地を知らず一面のレンゲ畑で昼食をとって帰園したことがある。
・アスファルトの舗装道路は滅多になく、昭和48年に試験場から尾尻に抜ける道路がやっと舗装された。ただ、神山小学校から神山幼稚園までは舗装されていたかも。それ以外は、砂利舗装。定期的にトラックで採石を撒く風景が見られた。
・神山幼稚園では七夕行事の際、短冊をくくりつけた笹(あれは竹だろうな…)を裏の川に流した。といっても水量が少ないので、一気に流れず増水時まではそのへんにとどまっていたような…。
・神山幼稚園には長寿の亀がおり、秋になると枯れ葉や土をバケツに入れ冬眠の準備をしてあげた。バケツの中に埋めたような気もするが、次の年もいたような気がするので、冬眠に成功したのだろう。
・神山幼稚園のブランコ(年少用)で飛び降りるのは得意だった。園舎の玄関前まで飛ぶことができたが、年長用のブランコではタイミングが合わずあまり飛べなくなった。危険な遊びをしていても先生は制止しなかった。
・予備校寮で隣室だったM君は偶然にも神山幼稚園時代の同級生。また、以前仕事でつきあいのあったSEは神山幼稚園の後輩にあたる人がいる(どうでもいいが)。
・当時の国道から神山集落まで至る路は田んぼの中の一本道であった。集落に入る前に橋が架かっているが、これは現在とは線形が異なる。また、橋のたもとに昭和48年末、文房具も販売する店ができたのだが、ここで買ったプラチナのシャープペン(500円)は長らく使用した。万年筆好きのきっかけとなる。あの店はどこに行ったのだろう。
・このへんに、交番とか郵便局とかあったような。記憶は曖昧である。
・神山小学校(現神山幼稚園)西側の道路に八百屋兼駄菓子屋があった。しかも小さな店なのに歯磨き粉まで入手できた覚えがある。仮面ライダーのカップアイスは10円だった。幼稚園ではこの店で『買い物実習』を行った。セロテープで10円玉を3枚数珠繋ぎにしたものを園児に持たせ、みかんとかバナナとか買ったような。バナナうまかったな…。
・神山小学校を東に行くと、川を渡る道とまっすぐな道二本に分かれるところがある。左に下る川を渡る道を行くと藁葺屋根の家があり、ここは同級生の家であった。
・まっすぐ行くと左手に『山之神社』『防火水槽』がある。『山之神社』からは水がわき出しているが、私がいた頃は湧き出していなかった気がする。この道には蛍がいた。防火水槽は夏期、神山小学校のプールとして使用した。夏休みは一般開放され私も浮き輪持参で水遊びをしたが、浮き輪からはずれおぼれかけた記憶もある。その後、泳ぎは得意になった。
・ここからまっすぐ行くと赤土の露出している崖があり、水がしみ出していた。そこをほじくると沢ガニのちっちゃいやつがいっぱい出てきた。左に行けば橋が木造の橋が架かっていたが、昭和47年くらいかな、鉄筋コンクリート製の橋に掛け替えられた。また、川も護岸工事がなされたが、よくオタマジャクシを取りに行った覚えがある。川で遊ぶな、と親に言われたがこれは上流に位置する東駿河療養所と当時の『誤解』に基づくもの。子供には関係ない。
・私の家はこのまま行ったところにあった。幼稚園児の足ではかなり幼稚園までかなり遠かった。家の向かいに畑もついていたくらい広大だったが、畑でよく遊んだな。また、ここにも防火水槽があったが、狭くて深いものでそのときは使用されておらず格好の遊び場所であった。
・ここから試験場へは遠回りとなるので、山沿いの道を行くことになる。へびとかとかげとかいっぱいいたような気もするが、田舎の幼稚園児は慣れていた。道や家が消滅してしまっているところもあるが、農地の石垣や柵など印象に残っている構造物で10年前に行ったときに残っていたときは感動した。
・黄瀬川にかかる『高橋』。当時は橋の周囲はうっそうとした木々に覆われており、川幅は狭く急流であったが、魚の影が見られた。幼稚園児はこの橋を渡るのが怖く、橋から落ちる夢を見てはうなされていた。そこに薬局ができたりした覚えがある。
・床屋。やはりうまいと評判だった。
・かかりつけの歯医者が三島にあった関係で母親に手を引かれ国道まで出てよくバス(富士急行)に乗った。70年くらいまでは若い女性の車掌が乗車しており、まだ小さかった私はよく可愛がられた。しかし、ワンマン化が72年頃急速に進み、それでもバス停を告げる女性のアナウンスは相変わらずだったので、若いお姉さん方はバスの天井にでも閉じ込められてしまったのかと、マジで心配した。

 当ブログでは当時の仲間を募集中である(笑)。

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