2012年6月7日木曜日

池森洋介の思い出 : 現ギタリスト&男の色気あるボーカリスト

若い頃、音楽をやっていた。といっても、一人でフォークギターをかき鳴らすスタイルで、大学のサークルでも異色であったことは自分でも認める。軽音楽部に所属していたので、先輩方に『バンドを組んだら…』とか『音楽部にトレードしといたからな。』と常にいじられる対象でもあった。でも、そのスタイルは曲げず貫いたつもりである。
あまり詳しくは書けないが、私は○○大学の法学部の出身である。この大学の文系学部の西日本の出身者は教養課程の一年間だけ、をとある地方都市にあるキャンパスに集め履修、という仕組みがあった。このクラス群は通称L系と呼ばれており、そこに集う学生に配布される学生証は○○学部の所属となっていて実際の所属学部とは異なっていた。なお、普通の大学では教養課程は2年にまたがるが、この大学では夏休み集中講義などを実施し、1年間で終わらせてしまう。
しかし、その変則教養課程も我々の年度をもって終焉を迎えることとなる。実は各学部においては、東日本出身の学生に対してはそれぞれの学部が東京近郊で教養課程を実施しており、それぞれの学部に所属するようなスタイルであったのだが、翌年以降はそれぞれの各学部が西日本の学生についても教養課程を実施することになったからだ。つまり、そのキャンパスに集う西日本の学生たちは比較的『学部間交流』が盛んだったともいえる。
二年以降はそれぞれ本来所属のキャンパスに分かれ、専門課程を履修することになるので、学部が違う友達はそれ以降滅多に会うことはなくなる。まさに単科大学の集合体であり、学部が違えば大学が違うくらいのイメージがある。
ちなみに、その地方都市のキャンパスには短期大学や異なる学部が併設されており、男が多いL系が東京の学部に移行する際、そこに大量の悲恋、別れが発生することが知られていた。特にその地方都市に取り残される女性は、その都市名をとって『○○未亡人』と呼ばれていたが、私にはそういう機会はなかった。無罪。
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軽音時代の同級生に『オザキ』と呼ばれる友人がいた。経済学部である。このブログでは私の氏名や職場、出身大学などはあくまで伏せているが、あえてこの友人の本名を書かせてもらうと、『池森洋介』という。変わり者?の軽音楽部の集まりの中、全体的には洋楽系ハードロックがもてはやされる風潮にあったが、彼と私は何となく和物をやっているという点で音楽性がそれなりに似通っており、また、同様に東海地方の出身かつ一年遅れの浪人組。私より2日ばかり早くこの世に生まれており血液型もA型であった。見てくれとセンスはかなり違うもののどこか似たところがあり私の数少ない(笑)友人の一人であった。で、共にレギュラーの一角を占めていた。私の場合はバンド中心の中、一人で出てきてギター1本の貧弱なスタイルとサウンドを見せられて周りとのギャップで笑いがとれる、また、お慰め、と言うこともあったかも知れないのだが、学業成績が低迷し、音楽を休業するまでなぜか彼とともにすべてのLIVEに出演を果たしていた。
なんと、彼は高校生の頃、『オフコース』もやったことがあるという。私もオフコースはよく歌っていたので、共通の話題があっただけなのであるが、彼の歌は、なかなかうまかった。音楽性の路線もあるので、サークルの中ではうまい、と言われることはなかなかないのだが、発音もきれいであって、細かい節回しやビブラートも駆使していた。いや、敵う者はいなかっただろう。ちなみに『オザキ』、と呼ばれていたのは、尾崎豊が大好きで、『Driving All Night 』『I Love You』『僕が僕であるために』『彼』なんかをよくやっていたからである。本物のオザキを聴いていた人たちは『いやそっくりだ…』とびっくりしてしまう。だから、サークルの中でオザキと言われていたのである。よく分析すれば、発声法は似ているが声自体はちょっと違っている。池森氏は『オザキ』と呼ばれることを嫌っていたし、『似てはいない』と言っていたが、軽薄な周りの連中は彼の気持ちに気づかず『オザキ』と呼び続けた。
しかし、歌に関しては印象に残るぐらいの実力を持った彼のことである。ライブでも相当な実力を見せてくれていた。
圧巻は文化祭での『SHERRY』であった。会場に3人の女子大生が迷い込んできて、当初は『下手だけど聴いてやるか』みたいな態度で、『あははっヒラメ顔のオザキだ!!』なんて抜かしやがっていた。最初は(私もよくこれは体験している。女子という者はよく男を最初は馬鹿にするものである…)こんなだったが、彼の『SHERRY』が始まり中盤以降、その女子大生たちは見る見るうちに顔色を変えてしまう。そして、涙を流し『感動』してしまったのである。挙げ句、歌い終わった後は、ぶつぶつ(聞こえないのに)司会者に文句を言い始める。『どこのクラスの何某という人か、ぐらいは紹介してもらいたい…』と。池森君は見事に小賢しい女子大生を歌で黙らせ、その上に感動というプレゼントをしたのであった。
raindogsという現バンドメンバー内ではオザキ似疑惑が取り沙汰されているそうで、『オザキは学生時代ちょっとやっただけ』、と本人は強く否定しているが、私が知る池森君は『オザキしかやらなかった』のである。

『SHERRY』はさだまさしの『雨やどり』が『原曲』?(D調)であるのだが、私の好んだ初期長渕の乾杯もD調であり、結構似ている。私の軽音楽部デビュー曲は陽水の『傘がない』(三連符)だったのだが、池森バンドのギタリストを借りて16ビートに編曲しなおして披露した際、池森君に大爆笑された覚えがある。まあ、その編曲自体はビートルズの『My Bonnie』にヒントを得ただけのことであり、できあがった『傘がない』はハードロックの『津軽海峡冬景色』みたいなものだった。いい思い出である。
岐阜県上宝村での合宿の際、寝所に指定された急作りのスタジオの2階で夜寝るときに、1階のスタジオから池森氏のシャウトがいつまでも聞こえていたのを今でも覚えている。それでも私はいつの間にか寝てしまったんだが。
あの頃はまだ安房トンネルはなかった。細い道をマイクロ三台で峠越えしたよな…。昔は数時間、今は数分…。たどり着いた山奥のペンションで食べたパンは最高にうまかったし、食堂のテレビで今までのライブをビデオで復習している時、当方のふきのとうのコピーを見ながら、『歌うまい』、『いい声している』と池森氏に褒められたし、『おまえやっぱり一人でやったほうがいい。』とも言われた。
みんなでテニスをやったのも楽しかった(当方実は元高校テニス部。軟式だけど)。

なぜ、私が一人で弾き語りのスタイルだったか、というと長渕の影響だったかも知れないし、ボーカルを生かすためには『余計なもの』を極力排除するしかない、と考えたかも知れない。もしくは、バンドの人間関係、もしくは恋愛関係でごちゃごちゃ、ドロドロになるのを敬遠したかも知れない…。若いときの話なので、なぜ?というのもわからなくなってしまっている。でも、おおかたこんなところだろう。なにか信念があって、一人にこだわっていたんだろう。

専門課程移行直前の昭和63年3月、最後の『お別れLIVE』だけは、岐阜出身のKM氏を中心としたバンドを組みチューリップの『心の旅』をやろうとした。しかし、本来の枠で5分もらえるところを3分に削られてしまい、その処分を不服として最後の出場機会を『ボイコット』したので、みんなに別れも告げられなかったことが残念である。確か、お別れLIVEのために作られたバンドは特別枠になるルールだったのだが、私の場合は、もともと一人でやっていたのでバンドになろうがならまいが5分もらえなきゃおかしいだろ、と主張した。『心の旅』は3分じゃできないし。せっかく姫野さんの真似をしようと思ったのに。

今さら私の歌は滅多に使うことはない。そのつもりもまったくない。私の音楽は今考えると、実は『手紙』であって結婚を境にして、『手紙を書く』必要はなくなったのであった…とも言える。その反面、池森氏のCDを聴き、また『アコギでRock!』という彼の信条を見ると、音楽の方向性は違うにしろ、私がこだわっていたアコギ1本のスタイルは私から彼に引き継がれた…っていうことは、いや、たぶんそれはない…(笑)。紆余曲折の中、彼が当時の私のスタイルと似たものになったのだろう。しかし、成長した彼にとっては私のスタイルの真似などということも決してない。音楽性という意味では私のはメロディアスを指向する『和製ニューミュージック』であり、彼のは『Rock』そのものであるから。私の歌は東京から引き揚げるときに消滅してしまったが、反面、彼は破れてしまった夢を一身に背負い、一定の境地に到達したということができる。

ちなみに、私はアコギとはあまり言わなかった。生活の中から発生するフォークなんだからあくまでフォークギターと言っていたが、バイトした金で買ったタカミネPT-112STはアコースティックギターだったのかな。エレアコだけど。あれは池森氏もライブの際使用した。未だに私の手許にある。よくあんな弾きにくいのを使えたもんだ(笑)。

なぜ、彼の思い出話をしたのか、というと、あれから25年もの月日が経過し、プロとしての活動をしているのを発見したからである。CDも出しているので是非聴いてやっていただきたい。YouTubeでも『池森洋介』で検索すれば聴くことができる。
ホームページ : http://www31.ocn.ne.jp/~raindogs/main.html
CD : 『Over』たとえばHMV

基本的にロックなんだが、軽快なストロークが特徴。昔からの彼の癖も一応ところどころにあるが(笑)。ちなみに私のストロークは『叩いて掻く』スタイル。彼のは本当『軽快に回る』。細かいビートに刻まれる力強いカッティングが特徴である。正直、アコースティックギター弾きでここまでやる人は聴いたことがない。エレキで多用する技をアコースティックギターに適用すること自体、ギターを知り尽くしギターと一体化しなければできないだろう。正直普通ではない、希有なサウンドである。ちなみに私もアコギでメタルに2-3度挑戦したことがあるが、何とも間延びしてしまうし、弦が堅いので実際やりにくい。池森氏のロックは確かに各方面で評されるとおり若干雑な印象を受けるが、カッティングの多用で引き締まり、音全体をうまくコントロールしている。
25年の歳月を経て、彼のテクニックは重厚さを増した。で、強いて言えばビートの一発目の前裏でリズムを崩す(休んでしまう)危険があるようだ。そこが彼の、雑だという評価につながっているが、危険な香りは男の色気でもある。それに加えシャウトをしまくりボーカルはヘヴィ…で不安定でスリルに輪をかける。ここが池森洋介の色気と魅力につながっている。

欲を言えば、昔のフォークみたいに8ビートでリズムを刻む、メロディアスで聴かせる歌謡曲っぽい歌を作ってもらいたいものだ。彼のボーカルは案外聴かせる曲にも絶対に合うと思う。静寂の中に響きわたり染みるような彼のボーカルをもう一度聴きたい。そう、『SHERRY』のような…。
できれば歳相応の男の演歌!!!っ。それなら、私でも歌える(笑)。

昭和62年(1987年)4月、最初に出会ったときは8号館のベランダだった。私のギターを奪い取って突然歌い始めた、『僕が僕であるために』。実に衝撃的な出会いであった…。
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以上、宣伝広告でした。池森君ごめん。評論してしまった…。

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